第一話 駆け落ちは計画的に

 

「セルジュ!」
 アニエスの呼びかけに、セルジュはすぐさまこちらを見た。少し驚いたように目を見開き、そうして駆け寄ろうとしたところを、男達に阻まれる。
「嬢ちゃんの無事は確認できたんだ。金を渡してもらおうか」
 男の一人が、そうセルジュに要求する。彼は怯む様子もなく、いつものように淡々と口を開いた。
「本当にアニエス様が無事か確認させてください」
「見たらわかるだろう? 手なんて出してねえよ」
 しかしセルジュはただひたすらアニエスを見つめていた。
「服が乱れています」
「嬢ちゃんが言うこと聞かないからちょっと脅しただけだ。……そこまで言うなら、確かめてこいよ」
 男が諦めたように言い放ったので、セルジュはようやくアニエスの手の届く距離にやってきた。
「セルジュ、来てくれたのね」
「お怪我はありませんか」
「うん、酷い目にはあってないわ」
 セルジュがアニエスの露わになった胸元の辺りを見ているようで、アニエスは慌てて手で隠した。
「首筋に傷が」
「うん、ちょっとだけ……」
 単に怪我の確認をしていたのだと気付くと、気恥ずかしさからアニエスはうつむいた。セルジュが心配しているのは、アニエスの安否だけなのだ。
「……話が違いますね」
 アニエスから男達へと視線を戻したセルジュは、低い声でそう呟いた。
「なに?」
「私は傷一つつけないでと記していたと思いますが」
「なんだよ、そんぐらいのかすり傷で。大体、嬢ちゃんが言うこと聞かないからだろ。それに、その傷はあんたの手紙を見る前だったんだ。そのぐらい大目に見ろよ」
 手紙? アニエスには何のことだかわからない。ただ、どうやらセルジュはこの状況に憤っているようだった。
「些細なことではありません。……交渉決裂ですね」
「なんだって!?」
 男達は色めき立つが、セルジュは相変わらず涼しい顔だ。
「大体、あんた一人で何が出来る? おとなしく金を置いていきゃ、あんたも嬢ちゃんも見逃すって言ってんだろうが」
「それはそれで穏便に話が済んでよいのですが、彼女を傷つけられておとなしく帰れないのも事実です」
(わたしのために、怒ってくれているの……?)
 アニエスははらはらしながら成り行きを見守りつつも、心は激しく揺れていた。まるで恋愛小説みたいな話の展開ではないか。
「へえ、それでどうしようって?」
 男達はそれぞれの得物を手にすると、セルジュを取り囲み始めた。
 それほど広い部屋ではない。戦利品を収める部屋でもあるらしく、樽や瓶に詰まった酒類、彫刻や剥製などが隅の方に置かれていた。
 セルジュは慌てることなく、ただじっとその場で周りを取り囲んでいる男達を睨みつけていた。
(あんなこと言ってたけど、ひょっとしてセルジュは強いのかしら?)
 本を読んでいる姿しか見たことはないが、意外と武術も出来るのかもしれない。相手に囲まれても表情を崩さないその様子から、アニエスはそう期待した。
 だが、期待はあっけなく崩れた。
 横手から振り上げられた棍棒の一撃を避けきれず、肩を押さえてうずくまる。そこへ背後からの蹴りが飛んできて、またたく間に地面に倒れ伏してしまった。
「セルジュ!」
 声にがっかりした調子が混ざっていたからだろう。彼は気まずそうに顔だけ上げた。
「威勢が良いのはいいが、実力を伴ってないと、格好悪すぎるぞ」
 まったく男達の言うとおりだった。けれど、何事も面倒がるはずの彼が、そうまでして立ち向かってくれたことが嬉しくもあった。
 男達は毒気を抜かれたのか、大したことないと認めたせいか、あとは遠巻きに眺めているだけだ。アニエスはセルジュに駆け寄った。
「大丈夫?」
「……やっぱり慣れないことはするものじゃありませんね」
 アニエスは少しだけ微笑むと首を横に振った。
「格好悪いかもしれないけど……わたしは嬉しかったわ」
 ぎゅっと手を握りしめる。がっかりするどころか、きっと以前より彼を好きになってしまっている自分がいた。
「じゃあ、金はいただくから、適当に帰れよ」
 セルジュが持ってきた大金の入った鞄をひらひらと振りながら、男は面倒くさそうに言った。案外、心底の悪人ではないのかもしれない。
「そうですね。そうしたいところですが……」
 セルジュは数度頭を振って立ち上がると、部屋を見回した。
「なんだ、まだ痛めつけられてえのか?」
 男達が臨戦態勢を取る。しかしセルジュは両手を広げて見せた。
「いえ、そうではなく。その鞄、鍵がかかってるんですけど、渡さなくていいですか?」
「は? さっき中身を見た時は鍵なんてかかってなかっただろ?」
「用心深い性格ですから、すぐに締めました。鍵はこちらです」
 そう言って、セルジュは小指の先くらいの鍵を男達に放った。放物線を描きながら、鍵はすとんと手の中に落ちた。男達は急いで鞄の鍵を開けにかかる。かちりと小気味よい音がすると、鞄は開いた。──大量の札束を室内に撒き散らしながら。
「うわっ!」
 男達は悲鳴とも歓声ともつかない声を漏らす。紙幣が天から降ってくるなど、願ったり叶ったりに違いない。
 男達が室内を舞う紙幣を追いかけるのに夢中になっている隙に、セルジュは静かに動いていた。壁沿いに置いてあった酒樽の内の一つの栓を思い切って抜きにかかった。
 かくして紙幣が舞う部屋の床に酒が流れ出し、ますます騒然とする中、セルジュは胸元からマッチを取り出すと、速やかに火をつけ、床に放り投げた。未だ樽からどくどくと流れ出す酒の上に。
「きゃあ!」
 目の前で火柱が立ち上り、アニエスは小さく悲鳴を上げた。その肩をセルジュが抱き寄せ、酒で濡れていない床の方へと引き寄せる。
 室内はますます混乱を深めた。炎は酒を伝い、室内に広がっていく。けれど、燃えてしまっては何の価値もなくなる紙幣を掻き集めることをやめる者はいなかった。
「では、失礼」
 セルジュは冷ややかとも言える声で炎の壁越しに見える男達にそれだけ告げると、アニエスを抱え、窓から脱出した。

 二階の窓から飛び降りたものの、柔らかな下生えのおかげで、怪我などせずにすんだ。
 セルジュが抱きかかえてくれていたので、アニエスはここぞとばかりにしっかりと抱きついておいた。
「大丈夫ですか?」
 しばらくして一息ついたところで、セルジュは小さく問いかけてきた。
「あなたこそ大丈夫なの? それに、あの人達……」
「私は大丈夫です。あの者たちも、欲に目が眩まなければ、死ぬことはないでしょう」
 セルジュは相変わらず淡々としている。それでも、アニエスを抱える腕は力強く、彼が自分を守ってくれたという何物にも代え難い事実に、心は喜びで溢れた。ぎゅっとセルジュの身体にしがみついて肩口に触れた時だった。アニエスの手にぬるりとした感触が生まれた。
 恐る恐る見てみると、赤い液体が手のひらに広がっていた。──セルジュの血だった。
「セルジュ! 血が出てるわ!」
 アニエスの必死の声にも、セルジュはわずかに顔をしかめただけだった。
「大丈夫です」
「大丈夫じゃないじゃない!」
「腹いせにナイフでも投げたのでしょう。死ぬような傷ではありません」
 セルジュはそう言い張ったが、アニエスは何とか自力で地面に降り立つと傷の具合を見た。確かに死ぬような怪我ではないかもしれないが、放っておいていいはずもない。
「とにかく街へ戻りましょう」
 アニエスが手を引くと、セルジュは無言で付き従った。

 街に引き返し、まずはセルジュを医者に診せてから宿に戻ると、すっかり夜になっていた。
アニエスは新しい服に着替えると、急いでセルジュの部屋に向かった。
「セルジュ、傷は痛む?」
 腕に包帯を巻いているはずだが、きちんと衣服を着こなしている様だけ見れば、怪我をしているかどうかもわからないぐらいだった。
「問題ありません。ご心配をおかけして申し訳ありません」
 アニエスは無言で近づくと、セルジュに抱きついた。傷口の辺りに触れないよう注意しながらも、精一杯の想いを込めて。
「……セルジュが死んじゃったらどうしようって心配だった。わたしのせいで、あなたが傷ついてしまうなんて、本当に自分が情けなくて、悔しくて……ごめんね」
 セルジュはなされるがまま、抱擁を受け入れていたが、やがてゆっくりと口を開いた。
「あなたの願いを果たすまで、死んだりなどしません。それで、これからどうしますか?」
 アニエスは顔を上げた。彼はまだ自分に忠実であろうとしているのか。父との契約のもと。
「もういいの。こんなこと無駄だって初めからわかってたもの。……だって、わたしが駆け落ちしたいくらい好きなのは……セルジュ、あなたなのよ」
 セルジュは表情一つ変えず、アニエスを見つめ返している。
「……知っていました」
「知って……? そうよね、お父様との約束の手前、気付いていたとしても、わたしのこと無下に出来なかったのよね。仕方なく嫌々付き合ってくれていたのよね」
「決して嫌々ではありませんが」
「じゃあ……」
 喉がからからでひどく声が掠れている。今一番欲しいのは、心を潤す愛の言葉なのだろう。
「今からでも……本当に駆け落ちしてくれる?」
 懇願するような響きが静かな宵闇に響いた。
「それは出来ません」
 いつも通り、誤魔化しなんてないきっぱりとした答。わかっていたことなのに、それが今日はどこまでも胸に苦しい。
「そうよね……好きじゃない相手となんてやっぱり出来ないもの」
 そっとセルジュから離れる。すぐそばにあった彼の心がアニエスの指からすり抜けていったようだった。
「……そうではありません」
 セルジュは離れていったアニエスの手首を掴むと、真摯な眼差しで見つめてきた。
「今ここで駆け落ちなどしても、デュクロ様が許すはずもありません。デュクロ様に認めさせるには、それ相応の手を打つ必要があったのです」
「どういうこと……?」
「ですから、全ては計画の内なのです」
 セルジュはもう一度アニエスを引き寄せると、優しく抱きしめた。そうして、事の次第を噛んで含めるようにアニエスに語ったのだった。
「アニエス様がおっしゃっていたように、デュクロ様は、アニエス様の結婚相手はあなたを護れるくらい強い人でないといけないという信念をお持ちです。けれど、ある日の宴会でこう言ったのです。『娘を悪漢から助け出してくれた人間なら婿にしてやっても良い』と。同席していたご友人の方が、口だけじゃないかと揶揄された時、そんなことはないとデュクロ様はおっしゃいました。そして、その誓いを立てるため、書面にその旨を記しました。ですから、その事実さえあれば堂々とあなたに求婚できるのです」
「え? え?」
「私は今回無事あなたを悪漢から救い出しました。あれだけ派手に騒いでおいたので、明日には街中に知れ渡っていることでしょう」
「そ、それでお金だけ渡して逃げずに、あんな真似したの?」
「あくまで悪漢から助け出すという筋書きが必要ですから。金銭と引き換えにあなたを助け出したのでは、おそらくデュクロ様は納得しません」
「で、でもそんなの証明できる?」
「私が乗り込んだことは周囲に知らしめておいたので大丈夫です。そして、デュクロ様が約束を反故にされないよう、あの日の誓いを記した証書は出発前に盗み出しておきました。今、ここに」
 セルジュは胸元から大切に丸めた証書を取り出した。正真正銘、父の署名が入っている。
「じゃあ、初めからそのつもりだったの? でも、わたしは本当に偶然あの人達に出会って攫われたのよ」
「あなたみたいな可愛らしくて無防備な人を悪漢が放っておくわけないでしょう」
 どんな理屈かは知らないが、彼は至極真面目な顔で確信をもってそう言った。
「でも、本当に悪い人たちで、あなたが殺される危険もあったかもしれないのよ!」
「私には力はありません。けれど、あらゆる状況に、知略で対処できるように考えてきました。数千通りは考えたので、とりあえずは何とかなると思いました」
 アニエスは絶句した。出発前に言っていたことは、単なる時間稼ぎだったのだろうか。
「何か事件に巻き込まれても、あなたには危害が及ばないように最善を尽くしたつもりでしたが……申し訳ありません、怪我をさせてしまいましたね」
 首筋の傷を申し訳なさそうな目で見るセルジュに気付くと、アニエスはぶんぶんと首を横に振った。
「こんなのどうってことないわ。それに、絶対あなたが来てくれると……信じてたもの」
 指先でそっと頬に触れてみる。未だに夢見心地ではあるが、触れた指先からぬくもりが伝わってきて、アニエスは静かに目を閉じた。夢では、ないのだ。
「ねえ、本当にわたしのこと、好き?」
「はい」
 すぐさま返ってきた望み通りの答を大切に噛みしめると、アニエスは今度は拗ねたように上目遣いでセルジュを見つめた。
「じゃあ、どうして今までわたしの気持ちにも気付かない振りしてたの? 三年間、あなたから愛情を感じたことはなかったわ」
「もし……そんな気持ちを表に出していたら、すぐにデュクロ様に屋敷を追い出されていましたよ」
 そう言われてみれば納得できた。アニエスがセルジュのことを気に入っていることは、少なからずデュクロに気付かれていたかもしれない。けれど当のセルジュがアニエスを何とも思っていないようならと、デュクロも安心していたのだろう。
「一体いつから計画していたの?」
「それは秘密ですが……」
 セルジュは優しくアニエスから身体を離すと、窓際に行き、カーテンを開けた。そこには青い紗織りの布が窓を覆っていた。そして、その布に透けるように月が姿を現した。
「青い月……」
 紗のかかった布越しに見える月は青く、幻想的だ。
 呆然と見つめるアニエスの手を恭しく取ると、セルジュはアニエスの薬指に銀細工の指輪をはめた。数日前に露店で見かけた、アニエスが気になっていたあの指輪だった。
「どうして、これが欲しかったってわかったの……?」
「あなたの考えていることは全部わかるんです」
 アニエスが描いた絵を一目見ただけで理解してくれたように。本当に彼には全て見透かされているのかもしれない。
「我が生涯はあなたと共に。今宵の月に誓って永遠に──」
 大好きな物語の大好きな場面。住む世界が違うはずの二人が、全ての困難を越えて結ばれる瞬間。
 彼女の望んだ求婚の言葉を口にすると、セルジュはそっとアニエスの額に永久の愛を誓う口づけを落とした。

 

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