第二話 初デートは試練を越えて


 想いが通じ合うって素敵。
 アニエスは近くにあるセルジュの顔を見つめては、夢見心地に思う。
 たとえば、ふと向けられた視線一つにしても、以前とはまるで違う。そこに確かな熱が込められているのだと思うと、それだけで嬉しくて頬が緩んでしまう。
「聞こえていますか、アニエス様」
 相変わらず口調は変わらないままだけど、そんなことは構わない。彼の隠していた本心を知った今となっては。
「もっと近くに来てくれないと聞こえないわ」
 わざと拗ねたように甘えた声を出してみたが、セルジュは心得たようにぐっと顔を近づけてきた。さりげなく肩に回された手にどきどきと心臓が高鳴ってしまう。
「では、質問はありますか?」
 いつもと同じ勉強の時間。でも、確実に以前までと二人の関係は変わっているのだ。
「知りたいことがあるの」
「何でもおっしゃってください」
「セルジュがわたしのことをどれだけ好きか知りたいの。目に見える形で」
 我が儘だと思われても構わない。それでも、どうしても確かめたいから。
 アニエスがじっと見つめていると、セルジュもいつにない熱っぽい眼差しでアニエスを見つめ返した。肩に当てられていた手が首筋をなぞり、やがて薔薇色に染まった頬を包んだ。
 ゆっくりと近づいてくるその時に備え、アニエスは目を瞑った。そして──。
「アニエスお嬢様、朝ですよ〜」
 のんきな声がアニエスの幸せな時間を木っ端微塵に砕けさせた。
「……また、夢かあ……」
 寝ぼけ眼で辺りを見回すと、アニエスは寝台の上で盛大なため息をついたのだった。

 アニエスの家出騒動から早二週間。ベルリオーズ家に平和な日々が戻ってきた。
「アニエス様、そこは昨日も指摘したと思いますが、綴りが間違っています」
 相変わらず愛想の欠片もない声が横合いから掛けられ、アニエスは渋面のまま、自分で書き付けた文字を恨めしそうに見つめた。
「もう嫌っ! どうして古語なんて勉強しないといけないの。わたしは古典なんて読まないし、もし読みたくなったとしても、セルジュが読んでくれればいいじゃない。だから古語の勉強なんて必要ないのよ」
 もともと苦手だった古語を、最近セルジュは重点的に勉強させようとする。ただでさえいらいらがたまっているというのに、この仕打ちにアニエスはここぞとばかりに不満をぶちまけた。
「どうしてと問われれば、デュクロ様が教えるようにとおっしゃったからです。それ以上も以下も理由はありません」
 よどみない答もこのときばかりは癪に障る。結局セルジュは変わっていない。父のいいなりのままなのだ。
「セルジュはこのままでいいの? わたしたち恋人同士なのに、デートの一つも出来ないのよ。お父様の顔色ばかり窺って……こんなことなら、やっぱり駆け落ちしておくんだった!」
「そう言われましても……約束は約束として守らなければいけませんから」
 この『約束』とやらが、アニエスは非常に憎かった。いくらセルジュがアニエスの恋人になっても、『屋敷の中でアニエスに触れてはいけない』というルールはまだ生きているらしく、彼は相変わらず馬鹿みたいにそれを遵守しているのだ。
「はいはい、アニエスお嬢様。とりあえず一息ついて、お茶にしましょうね」
 のんびりとした声が背後からかかり、アニエスは声の主を見上げるなり泣きついた。
「ルイーズだって、わたしがかわいそうだって思うでしょ? お父様ったら、全然セルジュを認めてなんていないんだから!」
「まあまあ、大切なお嬢様を取られたみたいでちょっと拗ねてるだけですから。じきにわかりますよ」
 そんなわけないとアニエスは思う。だって父はセルジュがアニエスに勉強を教える間、二人きりにならないよう、以前のように必ず誰かをそばにつけるようにと言い出したのだ。アニエスは反発したが、結局父には勝てなかった。それでも、その誰かをルイーズにして欲しいという要求だけはなんとか通せたのが不幸中の幸いだった。
 ルイーズはアニエスが生まれる前からベルリオーズ家で働く女中であり、幼い頃母を亡くしたアニエスにとっては、母代わりの存在だった。三十半ばの年齢だが、おっとりとした雰囲気がいつもアニエスを優しく包んでくれる。そして何より、いつだってアニエスの味方だった。彼女の前でなら、父に対する悪態もセルジュとの秘密も隠すことなく口に出来る。ルイーズが父に密告などしないことはわかりきっているのだ。
「でも、絶対二人きりにならないようにって意地悪な意図を感じるわ」
「年頃の娘を持つ父親なんてそんなものですよ。それに、一応は認めてくれたのでしょう?」
「まあ、言葉の上ではね……」
 アニエスに言いつかった本を探す旅から戻ってきたセルジュは、ベルリオーズ家に戻るなり、アニエスの家出を知った。そして彼女を捜すため屋敷を離れ、知略を尽くし、悪漢に攫われたアニエスを救い出した──それが表向きの筋書きだった。デュクロは涙を流さんばかりに喜び、セルジュを褒め称え、何でも礼をすると誓った。この隙を逃さず、セルジュはアニエスとの婚約の許しを得ようとしたが、アニエスの名が出た途端、デュクロは急によそよそしくなり、話をなかったことにしようとした。そこで、あの日の誓いの話をすると、今度もまたとぼけ始めた。最後の切り札となったデュクロの署名入り証書を出すと、ついにデュクロは観念した。本当に渋々といった体で、「考えておく」とだけ言ったのだ。
「お父様のことだもの。何かの隙に、なかったことにしようとしかねないわ」
 基本的にデュクロはアニエスに甘いが、それが結婚相手ともなればアニエスの願いであっても簡単には聞き入れてはくれなかった。
「確かに計算が外れましたね。デュクロ様はアニエス様の家出で相当憔悴しきっていると踏んでいましたから、その隙に上手く丸め込……いえ、説得してしまおうと思っていましたのに。意外と正気に戻るのが早かったですね。もう少し帰るのを遅らせて、錯乱寸前まで粘った方が良かったかもしれませんね」
 冷静に分析するセルジュは、言葉とは裏腹にさほど後悔の念はないようだった。言っていることはどうかと思うが、それでも自分との婚約を真剣に考えてくれているのがわかったので、アニエスはやっぱり嬉しく思うのだった。
「それでも、今までと何が違うっていうの? 恋人らしいことなんて何一つ出来てないわ!」
 昔からアニエスの頭にある、『恋人と一緒にしたい十のこと』が何一つ達成されていないことがとにかく不満で仕方なかった。それどころか、以前にも増して毎日毎日勉強ばかり。一緒にいることは出来ても、甘さの欠片もなかった。
「一緒にいられる……それが素晴らしいことじゃありませんか」
 ルイーズはやんわりと事態を肯定的に捉えようとしたが、アニエスは首を横に振った。
「それだけじゃ嫌。もっと恋人らしいことがしたいわ」
 大体、せっかく贈ってもらった青い宝石の指輪も、普段は外すようにとセルジュ本人に言われてしまったのだ。何でも、下手に父を刺激するなということらしいが、それも父の顔色を窺っているようでアニエスは面白くなかった。
「では、もう少し勉学に励んでください。そうすればデュクロ様も少しは許してくださるかもしれませんよ」
「どうして勉強を頑張らないといけないの? そんなの関係ないじゃない」
 セルジュの言葉にアニエスは反論したが、セルジュは少し考えた後、諦めたように吐息を漏らした。
「……では正直にお話ししましょう。デュクロ様から宣告を受けてしまいました。もしアニエス様の勉強に身が入らないようなら……また、明らかに勉強をおろそかにして成績が下がってしまったのなら──私を解雇するとおっしゃったのです」

「お父様って最低!!」
 淑やかに育っているはずの愛娘の罵声が、執務室の扉が開くと同時に自分に向けられたものだから、デュクロは突然のことに目を白黒させた。
「アニエス、ノックもなしに何だね……」
「お父様が最低なことをするからじゃない!」
 アニエスは急いで駆けてきたため乱れた金の巻き毛を肩から払うと、腰に手を当て父親を睨みつけた。彼が娘に望んだはずの愛らしく楚々とした品性は、残念ながら垣間見ることすら出来ない。
 デュクロは寂しそうな目でアニエスを見つめている。幼い頃に母親を亡くしたアニエスをそれは大切に育ててくれた父に感謝はしている。けれど、アニエスはもう右も左もわからない子供ではないのだ。アニエスはそんなことを考えながら父の目を真っ直ぐに見つめ返した。
 年齢はまだ四十に届いていないはずだ。娘から見てもまだまだ若々しく充分男として魅力的な顔立ちをしている。ルイーズに聞いた話では、社交界でも脚光を浴びる存在だったそうだ。
「最低なこととは何だね」
「セルジュを追い出そうとしてることよ!」
 頬を膨らませて抗議するアニエスに対し、セルジュの名を出されたデュクロは目に見えて不機嫌な顔をした。
「別に追い出そうとしているわけではないよ。きちんと仕事をしないならば辞めてもらうだけだ」
「それが追い出そうとしてるんじゃない! セルジュはちゃんとやってるわよ。何が不満なの?」
「……ちゃんとやってる? あいつがこの屋敷でやったことは、私の大事な娘を四六時中いやらしい目で見たり、あまつさえ、どさくさに紛れて娶ろうとしてることだろう!! ……ああいう手合いはむっつりスケベに決まっている! 私の人生経験上間違いない! なんと油断したことか!」
「……お父様の思いこみの方がずっといやらしいわ……」
「な、何を言うか! はっ! まさかとは思うが、もう既にここでは言えないようなことをあいつにされたんじゃないだろうね!」
 問われたアニエスは、あの青い月が輝く夜に、求婚の言葉と共に受けた口づけを思い起こし、頬を染めた。何度思い出しても、余韻に浸れるくらい大切な記憶だった。
「な、なにもされてなんかないわよ。セルジュはお父様の言いつけを守って、お屋敷でわたしに指一本触れてないわ」
「……屋敷の外ではその限りでない、と」
 僅かな言い回しの違いを敏感に拾ってくる。今日に限ってはやけに鋭い。
「だって、悪漢から救い出してくれた時に全く触れないなんて不可能でしょう」
「それでは、あいつは君の清らかな手に触れ、華奢な腰を抱き寄せたり、ついでとばかりに抱擁まで交わしたんじゃないだろうね。なんと破廉恥極まりない……!」
 父の飛躍した想像に、自分のことは差し置いてうんざりするアニエスだった。
「恋人同士なら普通でしょ。なのに、お父様とのくだらない契約に縛られて、全然恋人気分を味わえないのよ。その上わたしを勉強漬けにして! もうお父様のいいなりになるのは嫌!!」
「ななな何を言うんだアニエス。大体誰も恋人などとは認めておらんぞ!」
「何よ今更。お父様の人間としての器の小ささにがっかりするわ」
 更に追い打ちを受け、デュクロは衝撃のあまり顔を真っ青にした。
「とにかく、セルジュを追い出したりなんかしたら、もう二度とお父様と口も利かないから!」

 その日のお茶の時間に、アニエスは不満をルイーズにもぶちまけた。
「でね、もう二度と口を利かないって言って部屋を出てきたの」
 甘い香りの漂う焼き菓子を口に頬張ると、その美味しさにとろけそうになりながらも、顔はしっかりしかめっ面を保っている。
「まあ、それは旦那様は相当堪えたに違いありませんね」
「当たり前よ。わたしはもう子供じゃないのよ。いつまでも屋敷の外にも出してもらえないで、お父様のいいなりになると思っては困るのよ」
「でも、何も旦那様は意地悪でおっしゃっているわけではありませんよ。アニエスお嬢様が、それはそれは大切なんです」
「それは、わかるけど……」
 アニエスも父の愛情は痛いくらいに感じてはいる。幼い頃はそれで良かったのかもしれない。けれどいつまでもこのままでいいとは思わない。
「お父様の気持ちはわかるわ。けれどわたしはお人形じゃないの。意志のある人間なのよ。わたしの気持ちも少しは尊重して欲しいの……」
「はい、わたしにもお嬢様のお気持ちがわかります。けれど、お嬢様も旦那様のお気持ちをもう少し考えてみてください」
「お父様の気持ちなんて……」
 自分の気持ち一つでセルジュを追い出そうとしている勝手な父を慮ろうなどと思いもしない。
「あ、今日は蜂蜜入りの焼き菓子だ!」
 突然扉が開くと、言葉と共に少年が姿を現した。アニエスより四歳年下の少年は鋭敏な鼻をひくひくとさせ、こちらを見つめている。
「ジョエル、また来たのね……」
 ルイーズがため息をつくが、ジョエルと呼ばれた少年は悪びれず室内に入ってきてはアニエスの向かいの席に座った。
「だって、アニエスが来てもいいっていうから」
「アニエスお嬢様とお呼びなさいと言ったでしょう。……お嬢様申し訳ありません。いつも息子がご迷惑をかけて……」
「いいのよ、ルイーズ。本当にわたしが来ていいって言ったのだから。だって、一人で食べるより一緒に食べる方がずっと楽しいもの。ジョエルも甘いもの好きだものね?」
「ほらほら、こう言ってるんだし。母さん、僕にも飲み物ちょうだい」
 息子の身勝手な要求にルイーズはため息をつきながらも従った。ルイーズもデュクロと同じ、自分の子供には甘いのだ。
「ジョエルはいいわよね……お屋敷の外に出られるんだもの」
「まあ、買い出しとか用事もあるしね。でも何て言ったって、お休みの日に狩りに行くのが楽しいんだ! アニエスにも見せてあげたいなあ」
「ジョエルの弓の腕はすごいって噂だものね。野ウサギを捕ってきた時、フェリクスが誉めていたもの」
「まあね」
 得意気な顔になったジョエルをアニエスは心底羨ましいと思った。屋敷の外に出られることだけでなく、熱中できる何かを持っていることに憧れる。
「わたしもお屋敷の外に出たいなあ。セルジュと一緒に昼食を持って、自然の多い場所なんかに行きたいわ。本当にそれだけでいいのに……」
 アニエスの呟きに、ルイーズは励ますように同調してくれた。
「きっと叶いますよ。今すぐでなくても。……でも、そのためには旦那様と仲直りしなくてはいけませんよ」

 アニエスが父に不平を漏らした次の日。勉強の時間になってもセルジュはなかなか現れなかった。
「珍しいわね。セルジュが遅れるなんて」
「そういえば、旦那様のところに行ってから来ると言っていましたけど」
「まさか、お父様に軟禁されてたり……」
「まあ、旦那様はそんなことしませんよ」
 ルイーズとあれこれ話している内に、セルジュはようやく姿を現した。
「セルジュ、遅かったじゃない。何かあったの?」
「デュクロ様と話をしてきました。……おそらくはアニエス様にとっても朗報かと」
 やや疲れた顔をしているのは、父に会っていた証拠だ。アニエスは、『朗報』の言葉に目を輝かせた。
「お父様が認めてくれたの?」
「いえ、そうなら苦労はしないのですが。ただ……」
「ただ?」
「外出の許可を取り付けてきました」
「え? じゃあ堂々とデートしていいってこと?」
 屋敷の外に出られるのならば、父の決まりごとに縛られず、恋人らしくデートが出来る。そのことを想像しただけで、アニエスはうっとりと妄想に耽った。
「ええそうです。ただし、条件があります」
「もう、なんなの条件って」
「アニエス様が勉強の成果を試験で出すことです。合格点をとれば、外出の許可をもらえます。試験は一週間後です。……さあ、時間はありませんから、今すぐ始めますよ」

 

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