第二話 初デートは試練を越えて


 その日から、猛勉強が始まった。アニエスが望んで……というよりは、セルジュの迫力に圧されてといったところが大きかった。
 試験の問題を作成するのは、もちろんセルジュではないのだから、何が出るかはわからない。だからこそ、広範囲をまんべんなく勉強しなければいけなくて、アニエスはデートのためとはいえ、音を上げそうになった。
「いくらなんでも、こうずーっと勉強してると頭が痛くなるわ……」
「休憩している暇はないと思いますが」
 ちっとも優しくないセルジュにもアニエスは不満だった。なだめすかして欲しいわけではないが、もう少し何かあってもいいはずだ。
「わたしの出来が悪いから、セルジュは不安なのね。このままじゃ無理だって思ってるの?」
「そうではありません。……デュクロ様を納得させるには、つけいる隙を与えないくらいの点数を取らなければいけないからです」
 確かにそうなのかもしれない。けれど、アニエスばかり頑張っているようで納得いかない。
「デートするだけでこんなに大変でこの先どうなるのかしら……」
 机に突っ伏してしまったアニエスを見やると、セルジュは何かをじっと考えていた。
「もう少し前向きになってみてはいかがですか。たとえば、お屋敷の外に出て何がしたいか具体的に考えてみるのです」
「具体的に……? そうねえ……」
 アニエスはたくましい妄想力を遺憾なく発揮した。
「森とか静かな場所に昼食を持って散策に行くの。もちろん手を繋いでよ。それから……手作りのお菓子とか、セルジュに食べさせてあげたいなあ……」
「合格点をもらえれば、その全てが叶うのですよ。辛いと思ったら、今の気持ちを思い出してください」
「うん、わかったわ。わたしとデートできたら、セルジュも嬉しい?」
「それはもちろんです」
 何よりもその言葉が嬉しくて、アニエスはあっという間に失ったはずのやる気を漲らせていた。

「おや、アニエスお嬢様」
 厨房に入ってきたアニエスを見て、この家の料理人は驚いたように目を見張った。
「フェリクス、少しお邪魔するわね」
「私は構いませんが……お勉強で忙しいと聞いていましたが」
 ぎくり、といった感じでアニエスは一度だけ固まったが、平静を装ってフェリクスを見つめ返した。
「気分転換も必要だもの。それにね、ここに来ることは大事なの。ねえ、フェリクスはセルジュの好きな食べ物とか知ってる?」
 フェリクスがベルリオーズ家の料理人となったのは、アニエスが生まれる前のことだ。ルイーズ同様、彼もアニエスに対して我が子のような慈しみを持って接してくれている。年齢は五十を過ぎているが、穏やかで優しい人柄であり、誰に対しても丁寧な物腰で、アニエスもこの料理人と彼が作る料理が大好きだった。
「セルジュさんですか……特に好き嫌いはなかったとは思いますが、何が好きか……そういえば訊いたことがなかったですね」
「まあ、フェリクスも知らないのね」
 セルジュはアニエスの家庭教師となった時からベルリオーズ家に滞在しているが、アニエスと共に食事を取ることはない。料理長であるフェリクスなら何か知っているかと思ったのだがあてが外れたようだった。
「直接本人に訊いてみてはいかがですか?」
「それが一番確実なのはわかっているわ。でも、セルジュの好きなものを作ってあげてびっくりさせたいの」
 アニエスの意図がわかるなり、フェリクスは柔らかく微笑んだ。今まで料理などしたこともなかった箱入りのお嬢様が好きな人に手ずから何かを為そうとしている様が初々しく映ったのだろう。
「アニエスお嬢様が作ったものなら何だって嬉しいに違いありませんよ」
「そ、そうかしら……本当にそう思う?」
「ええ。その試験とやらが終わったら、何か菓子の作り方を教えて差し上げますよ」
「本当に? わたし、俄然やる気が出てきたわ。よろしくね、フェリクス!」
 にこにことしているフェリクスに、アニエスはもう一つのお願いを口にすることにした。
「それから、もう一つ頼みがあるの。無事セルジュとデートが出来ることになったら、昼食を持って出掛けたいの。フェリクスに作って欲しいメニューがあるんだけど……」
 おずおずと紙に書いたメニューを差し出すと、フェリクスは受け取り、ざっと眺めるなり大きく頷いた。
「腕によりを掛けて作らせていただきますよ。ですから、お勉強も頑張ってくださいね」

「ようやく終わったのね……」
 アニエスは机に突っ伏すとそのまま動きを止めた。極度の緊張と重圧から解放されても、しばらく動けそうになかった。
 試験は数時間に及んだ。父と、問題を作った教師達立ち会いの下行われ、彼らが去った後、ようやくアニエスは人心地ついた。それにしても、今になってセルジュが最近古語を熱心に教えてくれていた理由がわかった。確かに以前、父に古語が苦手だと漏らしたことがある。それを覚えていたデュクロはわざと古語を多めに試験問題に入れるよう手を打ったに違いない。そのことに感づいていたセルジュも大したものだとアニエスは感心することしか出来ない。
「お疲れ様です。本当に良く頑張りましたね」
 そう声を掛けてくれたセルジュの優しい口調に気付くと、初めてアニエスは顔を上げた。
「きちんと出来たかしら」
「一生懸命やったのなら、自ずと結果はついてきますよ。……勝手に点数を改竄されないよう、私は採点に立ち会ってきます。アニエス様はごゆっくりお休みください」
 セルジュはそう言うなり出て行った。後に残されたアニエスは、もはや試験に関しては自分に出来ることは何もないことに気付くと、来るべきデートに向け、自分が今すべきことを為そうと決意するのだった。

 その日の夕方に結果は知らされた。ルイーズがアニエスの部屋を訪れ、ことの次第を報告する。
「おめでとうございます、アニエスお嬢様。合格だそうですよ。それから今夜お祝いにと、旦那様とお嬢様とセルジュさんでお食事をということです」

 父が晩餐にセルジュを招待するなんて──。
 アニエスは我が耳を疑った。けれどルイーズは確かにそう言った。セルジュが策略を巡らせた結果なのか、父に何か思惑があるのか──それはわからないが、これは一つのきっかけでもあるのだ。いずれ家族になる身なのだ。一緒に食事をしておかしいことなど何もない。
 いつものように父と食事を取る広間に向かうと、セルジュは既に入り口で待っていた。普段着ている飾り気のない服などでなく、洒落た礼服を着込んでいるセルジュにアニエスは驚いた。
「そんな服持ってたの? ううん、それより、このことはセルジュがお父様にお願いしたの?」
「いいえ。デュクロ様からのお申し出です。とりあえず失礼のないようにと思ったのですが……変でしたか?」
 自分の身なりを見回すなり、心許なさげに呟くセルジュが新鮮で、アニエスは嬉しくなった。普段見られない彼を見られることは大きな喜びだった。
「変なんかじゃないわ。とっても素敵よ! 時々着たらいいのに」
「エルランジェの学術院に通っていた時に一着だけあつらえてもらったのです。何度かパーティーがあって。その時以外着たことはなかったのですが、無駄にならず良かったです」
 セルジュはアニエスの家庭教師になる前に、王都ドラクロワで学術院に通っていた。そこでそれは優秀な成績を修めていたのだという。その名声を聞き及んだデュクロが卒業してすぐのセルジュをベルリオーズ家に招いたというわけだ。そのことを何とはなく知っていたアニエスだが、セルジュの学生時代の話を詳しく聞いたことはない。思えば、セルジュが自分から何かを語るということはほとんどなかった。でも、もう恋人になったのだ。デートの時にでもたくさんセルジュのことを訊いてみよう。アニエスはそんな風にさらに夢を膨らませた。
「お父様、きっと観念したのよ。そうでなければ、セルジュを招いたりしないわ」
「……そうであればいいのですが」
 セルジュがそう言いたくなる気持ちもわかるが、今は素直に父の心境の変化を喜びたい。少なからず、何かがデュクロの中で起こったに違いないのだから。
 二人が用意された席に着くと、しばらくしてデュクロがやってきた。表情は穏やかならざるものであったが、二人を反対していた手前、気まずいのだろうとアニエスは推測した。
 長いテーブルの端にデュクロが座り、その斜め向かいにアニエスとセルジュが向かい合う形となった。
「本日はお招きに預かり、恐悦至極に存じます」
 セルジュのあまり実感のこもっていない感謝の言葉に、デュクロは鷹揚な頷きを返しただけだった。視線はセルジュに一度も向けられることなくアニエスのもとへと注がれる。
「アニエス、よく頑張ったね。まさか本当にここまで頑張れるとは思っていなかったよ。父親として、本当に君を誇らしく思うよ」
「それは先生がいいのだから、当然よ。わたしより、セルジュを讃えて欲しいわ」
 思わぬ娘の切り返しに、デュクロはぐっと言葉に詰まる。しばし何かを考えた後、非常に不本意そうに言葉を絞り出した。
「……まあ、なんだ。君も給料分ぐらいは価値ある働きをしたね」
「素直に負けを認めたらどうなの? それよりお父様。まさか約束をなかったことにしたりなどしないでしょうね?」
 フェリクスが前菜を運んできたが、誰一人手をつける者はいなかった。
「そ、そんなことしたりなどしないよ。ただ、ひとこと言っておかないといけないと思ってね」
「まあ、何かしら?」
「屋敷の外に出るのは許可しよう。だが、あまり遠くに行ってはいけない。人気のない場所もだめだ。それから必ず誰かを同行させて……」
「呆れた!」
 アニエスは席を立ち上がると、柳眉を逆立て怒りを露わにした。勉学は出来ても、社交界におけるマナー及び、実の父親に対する礼儀がてんでなっていないことにデュクロは今更のように気が付いた。
「結局お父様は認めていないんでしょ? 恋人同士のデートについていく邪魔者があってたまるもんですか! いい加減、セルジュを認めてよ!」
「ア、アニエス……少し落ち着きたまえ」
「わたしは冷静よ」
 椅子に座って腕組みをしながらこちらを見据えている愛娘を見て、デュクロは大きなため息をついた。
「本当にじっくり考えたのかい? 君は本当に彼が好きなのか? 助け出されて、なんとなくそう思っているだけじゃないのかい。君は雰囲気に流されるところがあるから……」
「わたしの気持ちを疑っていたの? 信じられない! わたしはずーっとセルジュが好きだったわ。お父様なんかより、ずっとわたしのことを理解してくれるセルジュのことが。この間のことがあったからだけじゃないの」
「しかしセルジュ、君の気持ちが本物かどうかも疑わしい。世間知らずの箱入り娘を財産目当てに誑かすということも……」
「お父様……何もわかってないのね。頼まれたってお父様みたいな人を舅にしてくれる人、そういないわよ。わたしへの愛があっても若干ためらったはずよ。それでもセルジュはわたしを選んでくれたのよ。この偉大さがわかる?」
「ど、どういう意味だね、それは!」
「そのままの意味よ。ぜっっっっったい、婿いびりするに決まってるじゃない。大体わたしも年頃なのに、ちっともお見合いの話がこないのは、そのせいでしょ」
「いえ、それは、旦那様が全力で阻止しているからであって……」
「フェリクス! 君は黙っているんだ!」
 料理を運ぶことも出来ず、暇を持て余した料理長がつい口を挟めば、デュクロはそれを力の限り遮った。
「と、とにかく! 百歩譲って君たちが好き合っていると仮定しよう。しかしだね、恋愛にも順序があるだろう。とりあえず初めは誰かと一緒に行きなさい。そうでなければ、この者が、アニエスが無知なのをいいことに破廉恥なことをしでかさないとは限らないからね……」
「破廉恥な行為が具体的に何を指すのかおっしゃってくださらなければ、こちらも対応に困ります」
 セルジュは表情一つ変えずそう切り返した。彼にしてみれば本当に純粋な疑問だったのかもしれないが、デュクロは顔を真っ赤にした。照れているのではない。怒っているのだ。
「な、なんといけしゃあしゃあと……!」
「お父様ったら! じゃあお父様はお母様とデートする時、誰かと一緒に行ったの? そんなデートをして楽しかった? お母様はそれで良いって言ったの?」
「む、むう……」
「お父様だってお母様が大好きだったのだから、わたしの気持ちわかるでしょう? ねえ、もう子供じゃないのよ。お屋敷の外に一歩も出るななんてあんまりだわ」
 アニエスの言葉に、デュクロは目に見えて落胆した。先程の勢いはどこへやら。力無く言葉を紡ぐ。
「君が心配なんだ……。外は何があるかわからない。危険なんだよ」
「それはそうかもしれないけど……でも、もう子供じゃないのよ。そんなに心配しなくても大丈夫よ」
 デュクロは頷かない。それどころか突然に表情を曇らせたまま遠い目をしている。
「デュクロ様、私が必ずアニエス様をお守りします。危険な目になど遭わせません。この身に代えてもお守りいたします」
 凛とした声が耳朶を打ち、アニエスは父からセルジュに目を移した。傍目に見ればいつもの彼と変わりないというのに、決意を瞳に秘めた揺るぎのない表情は、その言葉と共にアニエスの胸を熱くさせた。
 デュクロもその迫力に圧されたのか、言葉を返すことも出来ないようだった。
「今までデュクロ様と奥様が守り続けてきた大切なアニエス様を、必ずお守りするとお約束いたします」
 沈黙が広がる。皆がデュクロの応えを待っていた。
「……旦那様……」
 フェリクスがたまらず声を上げた。何かを深く気遣うように。
「……そうだな。一度くらい、任せてみよう……」

 

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