第二話 初デートは試練を越えて


 試験から一週間後。アニエスの願い叶ったその日は、快晴に恵まれた。
 お気に入りのドレスを着て、フェリクスに頼んだ昼食を詰め込んだ籐籠を持って、アニエスは上機嫌だった。
 二人が屋敷の門を出ても、姿が見えなくなるまで恨みがましそうに見送っていたデュクロの視線がなくなると、アニエスはようやくほっと一つ息を吐いた。ドレスの奥に隠れて見えないようにしていた首から紐でさげているものを取り出すと、いそいそと指にはめた。眩しい太陽の下に手を広げる。セルジュが贈ってくれた大切な婚約指輪が、久方ぶりにあるべき場所に収まっていた。
 セルジュがその様子をじっと見ていたので、アニエスは弁解するように言い募る。
「お父様がいない場所ならはめてもいいでしょ? だって、せっかくセルジュが贈ってくれた大切な指輪だもの。セルジュといる時ははめていたいの。本当はずっとこうしてたいぐらいなのよ……な、何かおかしい?」
 セルジュが口元を押さえて目を逸らしたものだから、アニエスは不安になってそう問いかけた。
「……いえ、可愛らしいな、と思って」
 面と向かってそんなことを言われたことがなかったアニエスは、なんだか無性に恥ずかしくなった。確かに、セルジュが嘘をついているのでなければ彼は自分のことを好きなはずだ。けれど、直接好きだと言われたわけではない。だから、アニエスは理由を確かめたくなった。
「セ、セルジュは、わたしのどこが好きなの……?」
 答を訊くのが怖いような楽しみなような。アニエスは上目遣いでセルジュを見つめた。
「そうですね……やはり一番は可愛らしいところです」
 二番目もあるのだろうかと思いながら、アニエスは小首を傾げた。
「外見がってこと?」
「容姿だけではなく、性格や考え方や仕草なんかも全てです」
 断言されてしまうと、それはそれでなんだか恥ずかしい。それでも初めて彼の本心を聞けたようで、アニエスは嬉しかった。
「手、繋いで。セルジュと一緒にデートするために頑張ったのよ。わたしの夢を叶えてくれる?」
「ええ、喜んで」
 久々に触れあった手の温もりが何よりも嬉しくて。アニエスは何度も何度も確かめるように、大きな手を強く握った。

 あまり遠出をすると父が心配するからと、アニエスはデートの場所に、屋敷の近くに広がる森を選んだ。歩いていける距離にあり、なおかつ人気もない。父がこっそりついてこないように、ルイーズとフェリクスにしっかり頼んでおいたので、おそらく邪魔者は来ないだろうが、やはり二人だけの時間を楽しみたかった。それに──。
「この森ね、ジョエルが時々狩りに来るそうよ。それでね、もう少し行ったところに泉があるんだって。そこに、鹿や小鳥が水を飲みに来るそうよ。そこに行ってみたいの」
 ジョエルの話を聞いた時、純粋に行ってみたいと思ったのは嘘ではない。けれど、アニエスが泉に向かうのは他にも理由があった。
 小さな泉へはすぐに着いた。そばに生えた木の枝で、小鳥が楽しげにさえずっている。二人は敷き布を広げて腰を下ろすと、辺りを見回した。
「あー理想通りだわ。セルジュが言ってたように、毎日セルジュとのデートを頭で予行演習してたのよ。だから、頑張れたの」
「それは良かったです。今日はアニエス様がしたいことを存分になさってください」
「ええ、もちろんよ!」
 そのつもりで来たのだ。万事抜かりはないはずである。
「それにしても、本当に綺麗ね……自然はこんなに美しいというのに、どうしてお父様はわたしを閉じこめようとするのかしら。実際に触れてみないとわからないものが世の中にはたくさんあるというのに」
 アニエスは泉に近寄り、透明な水を両手ですくい上げた。いくら物語に出てきても、実際目にしなくては感じられないこともある。
「アニエス様のことが本当に大切なのですよ。どんなことからも守りたい……そう思っていらっしゃるのでしょう」
「セルジュはお父様にあんな扱いを受けているのに、どうしてそんなことが言えるの?」
 出来ることなら、一緒になって憤って欲しかった。いつまでも子供扱いをする父のことを。それなのに、セルジュまで自分を子供扱いしているようで面白くない。
「デュクロ様の気持ちはわかりますよ。こんなに可愛らしいあなたが少しでも傷つくのを見たくないんです。出来うる限り、全ての危険からあなたを守りたい……そう思っています」
 アニエスが泉のほとりから立ち上がり、振り返ろうとしたところ、セルジュはそんな甘い言葉と共にアニエスを背後から抱きしめた。
「セルジュ……?」
 突然のことにアニエスはどうしていいのかわからず、ただなされるがままじっとしていた。自分が知りうる限り、セルジュはこんなに積極的ではなかったはずだ。
「本当は一時たりとも離れたくはありません。ずっとこうしていてもいいですか?」
 耳元で囁かれ、熱い吐息がかかる度、肌に感じたことのない甘やかな痺れが走る。心臓が急速に鼓動を早め、息をするのもやっとだった。ずっと望んでいたことなのに、どういう風に振る舞えばいいのかわからない。
「……嫌でしたか?」
 何も言葉を返さないアニエスに、セルジュは躊躇いがちにそう問いかけてきた。
「ち、違うわ! 嫌なんかじゃないの。びっくりしただけ」
 離れていく温もりを取り戻そうと、アニエスはぶんぶんと首を振り、セルジュの手に自分の手を重ねた。
「だって、セルジュいつもはそんなこと言ってくれないもの。本当にわたしのことが好きか心配になるくらいなのよ」
 耳元で、笑う気配がした。セルジュの笑顔が見たいとアニエスは顔だけ振り返ろうとする。
「良かっ……」
 安堵の言葉を漏らしかけたセルジュの声が不意に途切れる。途端がくりと力を失ったように、セルジュはその場に膝をついた。アニエスは慌ててセルジュに向き直り、助け起こそうとしたところで気がついた。
 セルジュの背に、おそらくは狩猟用であろう矢が刺さっていたのだ。
「セルジュ!」
 アニエスは咄嗟に事態を把握できず、とにかく名前を呼んだ。そうしている間にも矢の突き刺さった背中から、血が溢れだしてはセルジュの服を朱に染めていく。セルジュは苦痛の表情を押し殺し、掠れた声でアニエスに問いかけた。
「……アニエス様に、お怪我はありませんか」
「わたしは大丈夫よ。セルジュが盾になってくれたから……それより、どうして矢が?」
 辺りを見回しても、誰もいない。ただ、ここは滅多に人が来ないにしても狩り場でもある。流れ矢が飛んでこないとは言い切れない。
「アニエス様が無事なら……良かった……」
 セルジュはほんの少し表情を緩めると、不安がなくなったと思ったのか意識を手放した。
「セルジュ? セルジュ!!」
 アニエスは何度も名を呼んでは、肩を揺すった。けれど、セルジュが目覚める様子はない。
「やだ、どうして……」
 楽しいはずのデートだったのに。ずっと楽しみにしていたのに。
「わたしが、泉に行きたいなんて言ったから? 狩り場になんてこなければ良かったの……? 外に出たから天罰が下ったっていうの……?」
 信じたくない。けれど、今現実がここにある。
 しかし、今はそんなことを嘆いている場合ではなかった。セルジュを助けなければ。アニエスがもう一度セルジュに目を移すと、苦しいに決まっているのに、呼吸が荒れている様子はない。それどころか……息が止まっていた。
「嘘でしょう……? お願い、セルジュ死んだりしないで! せっかく想いが通じたのに、こんなところでお別れなんて嫌よ! まだ何も恋人らしいことしてないのに……もっともっと大好きだって伝えたいのに……」
 恐慌状態に陥ってしまったアニエスは、何も出来ずその場にうずくまった。ただセルジュにすがって泣くことしか出来ない。
 しかしすぐに、救いの手は差し伸べられた。
「……そんなに悲しんでもらえるなら、死んだ甲斐がありました」
 優しく髪を撫でるその手の存在に気付くと、アニエスは涙でぐしょぐしょになった顔を上げた。呆然とした表情で目の前を見つめる。
「セルジュ……?」
「すみません、悲しんでいただいたところ申し訳ありませんが、死んでいません。怪我もしてないんです」
「だって、血が……矢が……」
「鏃の先は危険のないようつぶしてあります。防護用の服も着ていますし……血は牛の血です。今朝料理長にもらってきました」
「……どういうこと?」
 その疑問に応えたのはセルジュではなかった。
「アニエス、ごめんね〜」
 いつからそこにいたのか、木の陰からひょっこりと顔を出した少年に、アニエスは心底驚いた。
「ジョエル!?」
「矢を射ったのは彼です。彼は素晴らしい弓の腕ですね。寸分違わず私の背中を射てくれました」
「ど、どうしてジョエルがセルジュを狙ったりするの?」
「だって頼まれたから。セルジュさん、きちんとやったんだから、ちゃんとご褒美に新しい弓買ってよね」
「約束は守りますよ」
「そうこなくっちゃ! あ、これ言われてた着替え。置いておくね。じゃあね、アニエス。僕はもう帰るから」
 何がなんだかわかっていないアニエスを残し、ジョエルはうきうきとした足取りで帰っていった。
「……わたしを騙して楽しい?」
 アニエスは不満げにセルジュを見つめた。思いがけないことならば、こんな心臓に悪い小芝居ではなく、贈り物などにして欲しい。
「驚かせたくてしたわけではありません。……アニエス様は、私が死ぬかもしれないと思った時、どんな気持ちでしたか?」
「それはたまらなかったわ! 心臓が凍るかと思った。セルジュがいなくなるなんて、考えたくもないもの……」
 今思い出すだけでも恐怖が蘇る。誰かを失うということ。永遠に時を止めるということがどれほど恐ろしいか。
「デュクロ様は、いつもそのような不安を抱えていらっしゃるのです。あなたに何かあっては……そう思ってアニエス様をお屋敷から出したがらないのです」
 その言葉に押し黙る。少なくとも、セルジュはアニエスを驚かせたかったわけではなかったのだとようやくここにきて理解できた。
「デュクロ様は、今のように目の前で大切な方を亡くされているのです。だから、余計その思いが強いのです」
「そう……なの? そんなこと、初めて聞いたわ。でも、だとしたら……お父様の気持ちもわかる気がする……」
 異常とも言える過保護が、デュクロの心の傷を深く表しているのだろう。
「でも、大切な方って誰なの?」
 アニエスが生まれる前の話なのだろうか。だとしたら、どうしてセルジュがアニエスも知らない事実を知っているのだろう。
「マリアンヌ様……あなたのお母様です」
「え……」
 アニエスはセルジュの言っていることが理解できなかった。
「お母様は病気で亡くなられたのでしょう? お父様だって覚悟が出来ていたはずよ」
 セルジュは真っ直ぐにアニエスを見つめると、ゆっくりと、だが、はっきりと告げた。
「デュクロ様はアニエス様にそう伝えられましたが、それは真実ではありません。マリアンヌ様は、事故で亡くなられたのです。アニエス様がまだ幼い頃、旅行に出掛けた先で、建設中の建物から木材が落下してきて……その下敷きになりました。デュクロ様は直撃こそ避けられましたが怪我をなさいました。そしてなにより目の前で奥様を助け出せなかったことを心底悔いていらっしゃるのです」
「そんなの……そんなの知らない! どうしてわたしには教えてくれなかったの?」
「マリアンヌ様が助け出された時……彼女が大切に抱きしめて守っていたものは無事木材の山から救出されました……あなたですよ、アニエス様」
「わたし……?」
「気がついた時には、もう避けきれなかったのかもしれません。でも、あなただけは守りたかったのでしょう。ただ、その事実をあなたに伝えると、自分のせいでマリアンヌ様が命を落としたのだと、一生悔やむかもしれない……そう思って、デュクロ様はあなたに真実を伝えなかったのです」
「そんな……」
「デュクロ様があなたを屋敷から一歩も出したがらない理由はこのせいでもあるのです。マリアンヌ様が命を懸けて守った大切なあなたを何があっても守り通したかったのです。デュクロ様は未だに本当のことを言うのを恐れていましたが、確かにあなたはもう子供ではない。屋敷の皆さんはこのことを知っていました。ルイーズさんが私に教えてくださって、気落ちしているデュクロ様と、誤解しているアニエス様に以前のような仲の良い親子の関係に戻って欲しいと……そう、頼まれたのです」
「そう、だったの……」
 考えもしなかった事実に頭を殴られたような衝撃を受けたが、不思議と心は落ち着いていた。たしかに自分のせいで母は亡くなったのかもしれない。けれど、そうまでして守ってくれた母の思いと、その命を守り育ててくれた父の愛情を思うと、後悔よりも喜びと感謝の思いが溢れてくる。
「あなたは、愛されているのです」
 セルジュの言葉が後押ししたように、自然と温かい涙が溢れてくる。父の愛を疑ったことなどなかった。けれど、自分のことばかり考えて父の思いを知ろうともしなかった。自分は何も知らず、大切に大切に守り育てられてきたのだ。
「ありがとう、セルジュ。あなたはそれを身をもって教えてくれたのね」
「上手くいかないかと思いましたが……ジョエルの弓の腕とあなたの純粋さで救われました」
「そんなの、疑うわけないじゃない……ああ、びっくりしたらお腹がすいたわ。ねえ、お昼にしましょう。フェリクスが今日のためにとびきりの料理を作ってくれたのよ」
 アニエスはそっと涙をぬぐうと、はにかんだような笑顔を見せた。

 

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