第二話 初デートは試練を越えて


 フェリクスが作った昼食を広げる前に、セルジュはジョエルが持ってきた服に着替えた。先程まで着ていた服には血の染みがついて、お世辞にも楽しいデートを続けるには不向きだった。
「そんな手の込んだことまでして……着替えまで用意させる周到さといい、一度セルジュの頭の中を見てみたいわ」
「真実味がなくては、胸に迫らないでしょう。アニエス様がいつも読んでいらっしゃる物語だって、現実味を感じられるよう、細部にこだわっているはずです」
「まあ、そうかもしれないけど……」
 アニエスが何を言ったところで、セルジュはいつだって反論の余地のない言葉を返してくる。いちいち納得してしまうからこそ、逆に悔しいアニエスだった。
「しかし、ジョエルが私の頭を射抜かなくて良かったです。あと二歳ほど彼が歳を重ねていたら、かなり危うい賭けでした」
「どういう意味? ジョエルはセルジュに恨みなんてないわ」
「わかりませんか。だから本当に心配になるんですよ……」
「わ、わからないわよ! それを教えてくれるのがセルジュの役目でしょう?」
「自分で考えることも勉強ですよ。ですが、手がかりだけ。あと二年もすれば、あの少年も色気づくということです」
「……ますますわからないんだけど……」
「そのうち、嫌でもわかりますよ……」
 そう呟くと、セルジュは少し切なそうな眼差しでアニエスを見つめ、愛おしむように髪に触れた。アニエスは先程の胸の高鳴りが蘇り、何か言葉を発しなければと焦った。
「そ、それにしても! ジョエルはいつからあそこにいたの? ずっとわたしたちを見ていたのだとしたら……」
 父に言いつけることなどしないとは思うが、ルイーズに話して聞かせるくらいはするかもしれない。なんとなく、それは猛烈に恥ずかしい。
「確かに彼は始めからあの場に待機していました。そうして、合図があれば矢を射るようにとお願いしていたのです」
「合図って?」
「私がアニエス様を抱きしめることです」
「え……」
 それがただの合図だとしたら、拍子抜けだ。確かにあの時のセルジュはいつもと違っていたけれど、それが自然に出た動作ではなく、ただの合図だったなんて。
「彼の腕を信用しないわけではありませんが、万が一アニエス様に当たったら、それこそ私は死んでお詫びしなければいけなくなります」
 身を挺して守ってくれたともとれるが、それでもアニエスはがっかりした。そんな事実、知らない方が良かった。
「……もういいわ。それより、デートの続きよ。本当は自分でお菓子を作りたかったんだけど、出来なかったのよね……」
 試験が終わってから、何度かフェリクスに菓子作りを学んでみたアニエスだが、今まで料理など一度もしたことがなかったため、お世辞にも上手に出来たとは言えなかった。失敗作の手作りをあげるよりは、フェリクスに作ってもらったきちんとしたものの方が良いとアニエスは判断したのだった。
「この際だから訊くけど、セルジュが好きな食べ物ってなあに?」
 どうせ今回作れなかったので、次回の課題にしようと、アニエスは訊ねた。
「特に苦手なものはありませんけど。そうですね、お菓子なら……胡桃の入った焼き菓子が好きです」
「胡桃が好きなの?」
「というより……母がよく作ってくれたので」
 セルジュの瞳が懐かしげに細められ、アニエスの胸は切なさと温かさでいっぱいになる。母の愛を知るからこそ、彼はアニエスに両親の愛を諭してくれたのだ。
「……わかったわ。セルジュのお母様のように上手くできないかもしれないけど……練習して、近いうちに食べてもらえるように頑張ってみる。とりあえず今日は、フェリクスの料理だけど……わたしの手でセルジュに食べさせてあげたいの」
 アニエスがフェリクスに頼んだ料理は、ミートパイ。大きなパイを食べやすいようにと小さく切り分けてくれている。こんがりと焼けたパイからは、食欲をそそるいい匂いがたちのぼっている。
「はい、口あけて」
 アニエスの言うままに、セルジュは口を開け、運ばれたパイにかじりついた。「おいしい?」というアニエスの問いに、生真面目に頷いてみせる。それだけで、アニエスは夢見心地だった。
 森の泉のほとりで、恋人同士が束の間のデートを楽しむ──。アニエスはうっとりと酔いしれた。フェリクスがきちんと注文通りに作ってくれた料理といい、万事がアニエスの思った通りだった。アニエスが大好きな恋愛小説の一つ、『秘められし恋』に倣い、想いが通じ合った恋人同士の初めてのデートの様子を忠実に再現してみせたのだ。多少の違いはあったものの、記念すべき初デートがこうであればいいと思っていたアニエスは充分すぎるほど満足していた。
 一通り食事が済むと、今度はデザートに手を伸ばした。さくさくのビスケット生地に果物の砂糖漬けとたっぷりのクリームを絞ったそれをうきうきとセルジュの口に運ぶ。クリームはたっぷりめに、というアニエスの注文をしっかり守ってくれたフェリクスに感謝しながら、アニエスは予定通りセルジュの口の端についたクリームを指先ですくった。
「クリームがついてるわ」
 これこそがアニエスの理想とする恋人らしいデートの醍醐味だった。密やかに感動を噛みしめていると、セルジュはそんなアニエスの手を捉え、指先についたクリームをごく自然に舐め取った。
「失礼、あなたの清らかな指先を汚してしまったことに耐えられなくて」
(え……もしかして……)
 どきん、と心臓が跳ねる。セルジュの言葉は、『秘められし恋』でヒーローが口にする台詞と全く一緒だった。
(わたしがしたいことに気付いてるの……? それをわかってて、合わせてくれるの?)
 どきどきとしながらもセルジュの顔を見つめていると、彼は何かを待っているようだった。アニエスは、慌てて自分が次に言うべき台詞を思い出した。
「わ、わたしはそんな綺麗なものじゃないわ。あなたはそうやっていつもわたしに距離を置いているみたいで……少し、寂しいわ。本当はもっとあなたに触れたいのに……」
「それは……」
 セルジュがアニエスの頬に手を伸ばす。
「あなたに触れる許しを得たと思って良いのですね」
「ええ、そうよ。わたしはもうあなたのものだもの」
 これでもかというくらい心臓が跳ね回り、鼓動が直接耳に響いているかのように感じられ、全ての物音が消える。それでもそっと目を閉じて、次の場面に備える。
 セルジュが徐々に近づいてくる気配が空気越しに伝わり、緊張のあまり息が止まりそうだった。頬に添えられた指が柔らかな肌を愛おしげに愛撫する。吐息が間近に感じられ──。
「……そういえば」
 唇が触れあう直前でセルジュは小さな呟きを漏らした。
「破廉恥な行為というのが結局何を指すのか、デュクロ様に確認するのを忘れていました。これより先はまたの機会にしておきましょう」
「え!?」
 アニエスは目を開けるなり声を上げた。せっかくの夢のような時間がまたしても父によって潰されたのかと思うと、この怒りをどこにぶつけていいのかわからなくなる。
「……帰ったらお父様に謝ろうと思ってたのに……もうそんな気持ちなくなっちゃったわ」
 楽しいだけのデートではなく、両親の愛情を知ることが出来た大切な機会ではあったけれど、セルジュと自由に愛を深め合うこともできないのなら、物足りない。
「それでも……まあ、これくらいなら問題はないでしょう」
 心底残念がっては膨れているアニエスの頬にセルジュは素早くキスをした。
「今度はアニエス様の手作りのお菓子を楽しみにしています」
 うつむいていたアニエスはゆっくりと頷くと、ようやくその顔に花がほころぶような笑みを浮かべた。

 暗くなる前に屋敷に帰り着くと、戻ってくるのを今か今かと待ちわびていたデュクロは、二人が出て行ってから一歩も動いていないのではないかという風体で、アニエスたちを玄関で出迎えた。
「随分遅かったじゃないか」
「まだ日も明るいわ。たまにしか外に出られないのだから、楽しんで何が悪いの?」
 言い返されたデュクロは、目に見えて落ち込んだ。アニエスは父に謝りたかったことを思い出し、素直になれない自分の心を叱咤した。
「ごめんなさい、酷い言い方をしたわ。お父様がわたしを心配してそう言ってくれているのはとても嬉しいわ。でもね、もうそろそろわたしを信用して欲しいの」
「信用していないわけではないよ」
 おろおろとしたデュクロは傍らのセルジュにちらちらと視線をやった。
「そう言うなら、わたしが選んだ人も信用して」
「む、むう……」
「お父様……わたしは今まで何も知らずに、お父様やお母様に大切に守り育てられてきたのね。とても嬉しいし、誇りに思うわ。お父様たちが大切にしてくれたこの命、これからも大切にしていくと誓います。だから……今度はわたしを信じて欲しいの。雛鳥はいつか巣立っていくものよ。もう少し、わたしも世界を知りたいわ」
「アニエス……」
 アニエスは後ろ手に抱えていた花束をデュクロに差し出した。森で摘んできた色鮮やかな野の花だった。
「今日ね、とっても楽しかったわ。その機会をくれてありがとう。外の世界にはいろいろなことがあるのね。楽しいだけじゃなく、怖いことだってあると思う……でもね、出て行かなくては知ることも出来ないの。森の中に綺麗な花が咲いていたわ。お父様に贈りたいって心から思ったのよ。きっとお屋敷にずっといたら、そんなことすら思わなかった……」
 デュクロは驚いた顔をして、花束とアニエスを交互に見つめていた。それでも大切そうに受け取ると、目頭を押さえ、震える声で呟いた。
「ありがとう……」
 アニエスはセルジュを見上げた。きっと父の感謝はセルジュにも向けられたものに違いない。
 柱の影から見守っていたルイーズとフェリクスも安堵したように姿を現した。
「アニエスお嬢様、良かったですね」
「ルイーズのおかげよ。セルジュが教えてくれたの」
 そっとルイーズに耳打ちすると、彼女は心底嬉しそうに微笑んだ。
「アニエス様、肩に花びらがついています」
 花束を渡す時に落ちたのだろう。セルジュがアニエスの肩に手を伸ばすと、ものすごい勢いでデュクロが二人の間に割って入った。
「せめて屋敷内では指一本触れるな!!」
「花びらだけ取るので問題はありません」
「いかん! もう近づくな!!」
「もう、お父様ったら……」
「大体、今日アニエスに破廉恥な真似をしたんじゃないだろうね!」
「だから、破廉恥な行為というのが具体的に何を指すのか教えてくださらないことには……」
「ええい、またしてもいけしゃあしゃあと!!」
 くだらない言い争いはフェリクスが夕食の支度が出来たことを告げるまで続いた。
「わたしが親離れするより、お父様が子離れする方が、ずっと大変みたいね」
 先が思いやられ、アニエスは深い深いため息を漏らすのだった。

 

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