第三話 来訪者は突然に


 暖かな陽光が庭園に差し込み、手入れの行き届いた樹木の枝で小鳥たちが楽しげにさえずっていた。
 アニエスは空を見上げると、眩しさのあまり目を細めた。この時間なら、きっと日当たりがいいのはあそこに違いない。そう思いながら、アニエスは歩き慣れた道を行き、屋敷内にある大きすぎる建物に向かった。
 書物が眠るその建物は、大きさに見合わず訪う者は少ない。けれどそこに毎日通っている人物にとってはそんなことは問題ではないのだろう。
「やっぱりここだったのね」
 午後の陽射しが差し込む窓辺の席に腰掛けては本を読んでいるセルジュを見て、アニエスは弾んだ声をあげた。
「見つかってしまいましたか」
 以前の彼なら一秒たりとも惜しいというように、視線すら本から外さなかったのに、今はこちらを向いてほんの少し微笑んでくれたようだった。それだけで嬉しくなって、アニエスは満面の笑みを浮かべてはセルジュに近づいた。
「何を読んでるの?」
「神学書です」
「面白い?」
「アニエス様の思うような面白さはないと思いますが……まあ興味深い内容です」
「ふうん……」
 それが物語なら、話についてあれこれ聞くことも出来るのに、大抵セルジュは学術書を読んでいるので、会話はそこで途切れてしまう。しかし、今日は昨日気付いた大発見を彼に聞いてもらうために来たのだ。
「ねえ、セルジュ。わたしとってもすごいことに気がついたの」
「何ですか?」
 アニエスは得意気にセルジュを見つめ返した。
「お屋敷内でセルジュはわたしに指一本触れてはいけないってことになってるでしょ? でも、セルジュからはダメでも、わたしからセルジュに触るのは大丈夫だと思わない?」
「……アニエス様に悪知恵がついたと嘆いていいのか喜んでいいのかわかりかねますね」
「だってそうでしょう?」
「言葉の上では間違っているとは言いきれませんが、デュクロ様から見れば同じなのです。現場を見られたら終わりです。アニエス様からと言っても信じてはくれませんよ」
「じゃあ、見られなければいいってことじゃない」
「……とりあえず今のあなたを見たら、デュクロ様は大層嘆くだろうということだけはお伝えしておきます」
 それでもセルジュはそれ以上何かを言うことはなかった。確かに、図書館にやってくるのはセルジュか、掃除に来る使用人くらいのものなのだ。
 アニエスはセルジュの隣に座ると、何の躊躇いもなく肩にもたれかかった。
「セルジュの読書の邪魔をするつもりはないの。ただここにじっとしてるだけよ。それならいいでしょ?」
「構いませんよ。でも、退屈じゃないですか?」
「いいの。セルジュと二人きりでいるだけで幸せだから」
 セルジュは表情を緩めたが、彼からアニエスに触れることはなかった。見られなければ一緒だと思うのに、どこまでも生真面目な彼がちょっと憎らしい。アニエスはセルジュの本を持っていない方の手に触れた。
「手、繋いでてもいい?」
「もちろんです」
 アニエスはぱっと顔を輝かせると、指を絡ませるように手を繋いだ。
「読みにくくない?」
「大丈夫ですよ」
 セルジュがいちいち丁寧に応えてくれるものだから、アニエスは急に申し訳ない気持ちになった。
「ごめんなさい。邪魔しないって言ったのに。もう黙ってるから」
 アニエスはセルジュの肩にもたれかかりながら、目を閉じた。小鳥たちのさえずりが聞こえる以外に物音はない。静寂の中、小さな幸せを噛みしめる。セルジュとの初めてのデート以来、父は少しは外出を許可してくれるようになった。月に二度くらいはセルジュとの外出の機会を与えてくれたし、父とも買い物に出掛けるようになった。まだまだセルジュを見つめるデュクロの目は厳しいが、それでも少しずつ何かが変わっているのだとアニエスには感じられたのだった。
 暖かな午後の陽射しの下、アニエスはいつのまにか眠りに落ちていた。彼女が眠りについても、セルジュはしっかりと小さな手を握りしめていた。

 ベルリオーズ家に来客が訪れたのは、そんなささやかな日々が続いていたある日のことだった。
 いつものようにアニエスがセルジュに勉強を教えてもらっている時だった。部屋のドアがノックされ、そこからジョエルが顔を覗かせた。
「まあ、ジョエル。お嬢様の勉強中は邪魔してはいけないと言っているでしょう」
 ルイーズが咎めると、少年は不機嫌そうに母を見上げた。
「邪魔しに来たんじゃないよ。用事があるんだよ、セルジュさんに」
「まあ、セルジュさんに?」
 ルイーズが視線を机に向かい合う二人に移すと、セルジュはわずかばかり眉を動かした。
「お客さんが来てるよ」
「セルジュにお客様? そんなの初めてだわ!」
 アニエスも驚くと、視線をセルジュに向けた。
「全く心当たりがありませんが」
 何かの間違いだとでも言いたげに、セルジュは興味なさげに呟いた。
「ユベール・シャルダンって若い男の人。友人だって言ってたよ」
「まあ、セルジュのお友達がいらしたの! 早くおもてなししないと!」
 アニエスは今解いていた問題を放り出し、うきうきと立ち上がったが、セルジュは冷厳と告げた。
「お引き取り願ってもらってください」
「え? お友達なのでしょう?」
「友人などではありません。そんな人間、記憶に留めておりません」
 アニエスはジョエルを見た。たまに悪ふざけをするジョエルを疑ってしまうのも仕方ないことだった。
「嘘じゃないってば。学術院で一緒だったって言ってたよ。セルジュさんが帰れって言うなら、そう伝えるよ。僕はセルジュさんを呼んでくるように言われただけだから」
 アニエスはもう一度セルジュを見上げた。不思議になって首を傾げる。
「セルジュの記憶力をもってしても覚えられない人ってどういうことなの?」
 そこまで言われて、セルジュは観念したように深い息を吐き出した。
「……まあ、覚えていないわけではありません。記憶から消そうと努力した結果です」
「やっぱりお友達なのね。お待たせしちゃ悪いわ。すぐに行きましょう」
「友人などではありません。ただの知人です」
 そこは譲れないらしく、セルジュは二度も言い直した。
「セルジュが会いたくなくても、わたしは会ってみたい。ジョエル、案内してくれる? わたしが行くわ」
「うん、わかった」
 椅子から立ち上がったアニエスを見て、セルジュは今まで見たことのないようなうんざりした顔をした。
「……仕方ありませんね。気は進みませんが私も行きます」

 応接室で待っていたのは、ジョエルの言ったとおり若い男だった。年の頃ならセルジュと同じか少し上くらい。アニエスは初めて見るその青年を無遠慮に見つめてしまった。
 こちらに気付いたユベールという名の青年は、アニエスに気付くと立ち上がり、会釈した。金色の髪は清潔に整えられ、紺青色の瞳はセルジュと同じように知性の光を感じさせる。セルジュの学友というだけあって、もちろん頭は良いのだろう。そして整った顔と共に、身なりも洗練されていた。おそらく、裕福な家の出なのだろう。
「初めまして。アニエス・ベルリオーズ嬢でいらっしゃいますね? 私はユベール・シャルダンと申します。セルジュとは、彼がエルランジェ王立学術院を卒業して以来になりますが……まさか、このような可愛らしいお嬢さんの家庭教師になっていたなんて、羨ましい限りです」
「か、可愛らしいだなんて……」
 アニエスは頬を染め、恥じらった。そんなことを言ってくれる人は最近のセルジュ以外になかった。けれど、アニエスは気付いていなかった。そもそもセルジュ以外の、年頃の男性に出会う機会などなかったことに。
「用件は何ですか。五分で済ませて、とっとと帰ってくれますか」
 あとから遅れて入ってきたセルジュはアニエスとユベールの間に立つと、不機嫌そのものといった調子で言葉少なに宣言した。
「久しぶりの再会だというのに、相変わらずあんまりだな、君は。少しは喜んでくれてもいいじゃないか」
「全く嬉しくないので喜びようがありません。むしろ不快です。早く帰ってください。アニエス様の貴重な時間を無駄にしないためにも」
「もう、セルジュったら。せっかく来てくれたお客様に失礼じゃない。わざわざ会いに来てくれたのよ。まずはそれを感謝しなくちゃ」
「そんなにありがたがるような存在じゃありませんよ」
 セルジュとアニエスのやりとりに、当のユベールは一瞬ぽかんとしたが、ややあって堪えきれないように笑い声を上げた。
「いやいや、すまない。全く変わっていないと思ってしまって。君は本当に昔から思ったことと正反対のことを言ってしまうあまのじゃくな性格なのだから」
「……」
 セルジュは渋面になったまま黙り込んだ。言い返せないのではなく、言っても労力の無駄だと悟ったかのようだった。
「ユベールさんは、昔のセルジュのことをよくご存じなんですか?」
 アニエスは好奇心からそう訊ねた。未だにセルジュのことをよく知らない。学術院での彼を知るユベールから話を聞いてみたいという気持ちがむくむくと沸いてきたのだ。
「ええ、もちろんです。私たちは良き好敵手同士でしたからね」
「かなり一方的な思いこみですが」
「それはもう切磋琢磨したものです」
「私はあなたより二年早く卒業しましたけど」
 アニエスはそんな二人を交互に見て、とにかくお互いの誤解を解くために時間が必要なのだと判断した。
「とりあえず、こんなところではなんだもの。お茶でも召し上がっていってください。もうすぐフェリクスがとびきり美味しいお菓子を作り上げる時間だから」

 客間にユベールを案内すると、アニエスは使用人にお茶の用意を頼んだ。三人が席に着くと、ほどなくして紅茶と菓子が運ばれてきた。
「父は今日は出掛けているんです。大したおもてなしは出来ませんが、せっかくなので、くつろいでいってくださいね」
 アニエスが立派に接待役を務めると、ユベールは驚いたように目を見張った。
「美しいだけでなく、しっかりされているのですね。さすがはベルリオーズ家のご令嬢ですね」
「そ、そんなこと……」
「いえ、本当ですよ。一流の家名を持つからこそ、家庭教師も一流というわけですね」
「ええ、セルジュは本当に素晴らしい先生なの。学校でもとても優秀だったのでしょう?」
「そうですね。算術、天文、論理、修辞に優れていたセルジュですから、卒業後いったいどれだけの功績を成すのかと皆が注目を集めていましたから。そんな彼を一家庭教師として雇ったのですから、ベルリオーズ家の力たるやすごいものです」
 アニエスはその言葉に違和感を覚えた。ユベールの表情は穏やかで、声音は優しい。けれど言葉の端に、何か棘のようなものを感じたのだ。
「私は君が、ドゥグルターニュの十三の問題を全部証明してしまうのかと思っていたのに。さすがの君でも、やはりドゥグルターニュは難問だったということかな」
「……興味がないんです。そこに時間を費やすより、本を読んでいたいので」
「ああ、本当に君らしいね。家庭教師になってなにより喜ばしかったことというのが、本を好きなだけ読めることだっていうんだから」
 ここに来て、アニエスはユベールの言葉の裏にある、嘲るような気配に気がついた。表面上ではセルジュを持ち上げているかのように思えるが、その実、アニエスの家庭教師になったことを揶揄しているのだ。
 しかしアニエスはぐっと気持ちをこらえた。セルジュがあれほどしぶっていたのに、自分が言い出したことで彼をお茶に招待したのだ。責任はアニエスにあるし、接待役として、彼をもてなす義務がある。
「そのドゥグ……なんとかというのは、何ですか?」
 アニエスがユベールにそう訊ねると、彼は得意満面な笑顔と共に答えてくれた。
「算術・幾何における、未解決の問題です。ここ数十年で未だ解答の出ていない難問が十三問あるのです。セルジュなら解けるのではと学術院の教師陣も期待していたのです」
「そういえば、そんな問題があるってことはセルジュに教えてもらったわ。セルジュなら、解けるの?」
 水を向けられたセルジュは、すっかり固くなった口を仕方なさそうに開いた。
「やってみなくてはわかりませんが……解くにしても時間がかかるでしょうね。そんなことをやっている暇はないので、解くつもりはありませんが」
「まあ、学術院一の優等生と誉れ高い君だから、まさか解けなかったなどということになっては困るだろうしね。何より、家庭教師をしている君は、もうそんなことをする必要もないのだろうけれど」
 アニエスにも今やはっきりと感じられた。ユベールの瞳の奥にある、セルジュに向けられる憎しみとも嘲りともつかない歪んだ感情の高ぶりが。
「ユベールさんだって、解いてないんでしょう? だったら……」
「いいえ」
 いい加減悔しくてそう返したアニエスの言葉をユベールが強い調子で遮った。
「先日、ドゥグルターニュの十三の問題の一つを証明することに成功したのです。まだ公には発表していませんが……既に国王陛下より叙勲を賜ることが決まっています。セルジュ、君に一番に知らせようとここまで来たんだ」
 最後に向けられた言葉は、鋭い視線と共にセルジュに放たれる。
 ユベールはセルジュに会いに来たのではない。彼に自分の優位を示すためにわざわざこんなところまで押しかけてきたのだ。
「それは……おめでとうございます」
 しかしセルジュの反応は、アニエスもユベールも予想し得ないものだった。
「けれど、何も私などに一番に知らせなくても、もっと他に適切な誰かがいたのではないですか。私は気の利いた賛辞も、祝いの品もあなたに贈れないと思うのですが」
 ユベールはおそらく考えていた言葉を継げなくなったのだろう。言葉に詰まると、頭を整理しているようだった。やがて、顔にはぎこちない笑顔が浮かんだ。
「嫌だなあ。別にそんなものを要求しているわけじゃないさ。学生時代の無二の親友に、一番に知らせたいと願う、この純粋な気持ちがわかるだろう?」
「全くわかりません。そして、親友などではありません」
 セルジュは変わらず淡々と返した。
「君が先を越されて悔しいのはわかるが、そんなにつれなくすることはないだろう?」
「全く悔しくなどありません。何度も言いますが、そんなものに興味はありません。もう用事が済んだのでしたら、早々にお暇願えますか。まだアニエス様の勉強の途中なんです」
 セルジュが席を立とうとしたので、ユベールは慌てて引き留めようとした。
「いやいや悪かったよ。そんなに君が衝撃を受けるだなどと思わなくって。まだ君もこの事実を受け入れかねているんだね。きっと時間が経てばそれは過去になるよ」
「あなたが数年経ってなお、その勘違い甚だしい思考の持ち主のままだということには衝撃を受けました」
「君は今、混乱しているようだ。では後日語ろう! 二週間後に私の屋敷で祝賀会を催すんだ。無二の親友の君に来てもらえればと思ってね」
「結構です。私は仕事がありますので」
 セルジュはにべもなく突っぱねた。しかし、アニエスは思わず叫んでいた。
「パーティーがあるの?」
 ユベールは今度はアニエスに視線を向けると、にこやかに微笑んだ。
「ええ、パーティーですよ。もしよろしければアニエス嬢もいらっしゃってください」
 アニエスはその甘すぎる言葉に、ユベールが嫌な人間だということも忘れて聞き入った。外出もろくにさせてもらえなかったアニエスは、社交の場に出たこともない。ベルリオーズ家で誕生日の祝いなど、折に触れ身内で行ってきたが、紳士淑女が多数集まるパーティーには行ったことがなかったのだ。
「行きたい! ねえ、セルジュ、わたしどうしても行きたい!!」
 あまりの瞳の輝きに負けたセルジュは、苦虫を噛み潰したような顔をしながらも、しぶしぶ頷くはめになったのだった。

 

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