第三話 来訪者は突然に


 祝賀会への参加は、ユベールがご丁寧にも招待状を残してくれたので、デュクロへの説明も容易かった。しかしながら、やはり娘が屋敷の外に出ることに心配性の父親はいい顔をしなかった。
「いいじゃない。わたしは一度もこういったパーティーに出たことがないのよ。もうそろそろ出てみたいの。セルジュの学生時代のお友達のパーティーなのだから、きちんとしてるもの」
 デュクロは招待状を穴があくほど見つめながら、口を真一文字に引き結んでいた。眉間に刻まれた皺が苦悩を表しているようだった。
「旦那様、私からもお願いします。アニエス様もそろそろ社交場に出てもいい頃合いかと」
 ルイーズが遠慮がちに、だがはっきりと口を挟んだ。母代わりの彼女としては、アニエスの望みを叶えたいと純粋に心から思っているのだろう。
「シャルダン……か。貴族としては下流だが、学術院の出であり、叙勲を受けるというのなら、まあ一度くらい出向いても悪くはないか」
 デュクロは誰にともなく呟くと、一言も口を挟まないセルジュの方を見やった。
「君はそこに出向いていくことに抵抗はないのかい? 君の方が学業は優秀だったはずだ。そんな格下と思っていた彼に輝かしい功績を見せつけられて悔しくはないのかね」
「難問を解き、叙勲を受けることは名誉かもしれません。けれど私にとってはそんなものより、ベルリオーズ家でアニエス様の家庭教師を務めることの方が、名誉であり、誇りであると考えています」
「そ、そうか……」
 何の迷いもなくそう断言されると、デュクロはそれ以上何も言えなくなり、アニエスに目をやった。期待に満ちた眼差しが否応もなく自分に向けられている。
「……わかった。許可しよう。ルイーズ、アニエスをしっかり頼むよ」

 青い空に白い雲が流れていく。
 ぼんやりと空を眺めていたアニエスは、今度は前を向くと、遠くを指差した。
「あのずっと先に、ユベールさんのお屋敷はあるのね」
 小高い丘から遠くを見晴るかす。アニエスには夢のように遠い距離だった。
 こんな風にようやくセルジュと一緒に外出が出来るようになったことを喜んでいたが、やはりもっと遠くにも行ってみたい。いつか知らない街にも、セルジュと二人で行ってみたい。
 隣に座っているセルジュが何も返してくれないので、アニエスは不安になった。ユベールの屋敷に行くことを承諾してはくれたが、やはりセルジュは乗り気ではなさそうだった。あの日から、どことなく気持ちが沈んでいるように思える。
 アニエスはセルジュの腕にぎゅっとしがみつくと、しゅんとうなだれた。
「……ごめんなさい。セルジュは嫌だって言ってたのに、わたしが我が儘を言ったから、またあの人に会うことになってしまって」
 セルジュは驚いたように傍らのアニエスを見つめた。そうして安心させるように、小さな手を握った。
「いえ、別に大丈夫ですよ。あの人の妄想と嫌みに付き合わされるだけで、おそらく実害はありません」
「でも……ここのところ、セルジュはあんまり楽しそうじゃないもの。それに……わたしにだってわかったの。あの人が、セルジュのことをお友達だなんて思ってないこと」
「ええ、本当にそうなんです。ユベールにとって私は目障りな存在だったんです。私がエルランジェに入る前は、彼が学術院一の優等生でしたから。しかも私はあの人より年下で、あとから入った私が先に卒業したことも相当許せなかったみたいですよ」
「……セルジュって本当に凄かったのね」
「いえ……」
 改めて聞くといかにセルジュが並はずれていたかがわかる。デュクロは、国で一番の教師を見つけたと鼻高々だったが、その意味が今になってようやくわかった。
「彼は貴族ではありますが、ベルリオーズ家のように一流ではありません。そんな彼が学術院で一番の成績を修めていた。それが彼の自尊心を保っていたのです。彼を抜く存在が、まだ彼より格上の貴族なら諦めもついたのでしょう。けれど、私は貴族ですらなかった。彼が築いてきた全てを……おそらく私が壊してしまったのです」
「でも、それはセルジュのせいじゃないわ」
「いえ、気付けば良かったのです。平民である自分は、分をわきまえて彼らに花をもたせれば良かった。けれど、幼い私はそんなことを思いつきもしませんでした。まあ、推薦状を書いてもらって入学した身ですから、学術院で精一杯のことをしなければという思いもあったのですが」
 アニエスはいてもたってもいられなくなった。自分は何も知らなかったのだと思い知るばかりで、セルジュの抱えていた行き場のない思いに気付くことすらなかったのだ。
「……すみません、つまらない話であなたを泣かせてしまうなんて」
 セルジュはアニエスの頬に伝う雫を指先でぬぐうと、壊れ物を扱うように、アニエスの頭を自身の胸に抱き寄せた。
「純粋すぎるあなたは、こんなことでも心を痛めてしまうとわかっていたのに」
「……わたし、セルジュのこと何も知らなかったの。わたしは自分が今日までいかに平穏に生きてきたのか思い知ったわ。傷つくこともなく、本当に守られるだけだったのね。ねえ、セルジュのこと、もっと知りたい。教えて欲しいの」
 涙で潤んだ瞳がセルジュに真っ直ぐに向けられる。愛おしむようにその頬に触れ、もう一度涙のあとをぬぐうと、セルジュは答える代わりに、そっとその頬に口づけた。

「王都から離れた小さな村で、私は母親と二人で暮らしていました。母は村にあった教会で下働きをしていて、もちろん裕福な暮らしではありませんでしたが、平和な日々でした」
 大きな木の根元に背を預け、セルジュは自分の膝の上にアニエスを乗せ、背中から抱きしめては、訥々と語り出した。
「お父様は?」
「父親はいません。物心着いた頃に、そのことに気付きました。けれど、母は父については何も教えてくれませんでした。おそらく……正式に婚姻を結んでいたわけではなかったのでしょう」
「え……」
「珍しいことではありませんよ。貧しい村に暮らす女性の子供には、父親が誰なのかわからない子供はたくさんいます。母が父と呼ぶべき人を愛していたのかも……わかりません」
 アニエスにはそのことが信じられなかった。人は誰しもいつか必ず大好きな誰かと巡り逢って恋に落ち、結ばれるのだと思っていた。望まない結婚を受け入れることもあるのだと理解はしていたが、それでも父親と母親は必ず存在して、我が子を大切に思っているのだと信じていた。
「わたしのお母様はもういないけど、それでも……わたしは愛されていた。それが当たり前だと思っていたなんて……ごめんなさい」
 いつかセルジュが言ってくれた言葉が、別の思いをもって胸に迫る。父が自分のことを理解してくれないと拗ねていただけのアニエスに、自分は何よりも家族に愛され、守られているのだと教えてくれた。セルジュはどんな思いで、それを口にしたのだろう。
「私のことを気に掛けてくださっているのなら、気になさらないでください。私はこのお屋敷に置いていただいているだけで、今までの過去を補うぐらい幸せを分けてもらいました。気付けば私もお屋敷の皆さんと同じように……あなたを大切に思うようになっていました」
 思わぬ告白に、アニエスは目を見張った。初めてセルジュから自分のことを好きになってくれた経緯を聞けたような気がする。
「わ、わたしもずっとセルジュが好きだったわ。いつもわたしのことを一番に理解してくれていたし、わたしの気持ちを何よりも尊重してくれて……」
 彼が人の心の機微に敏感なのは、そんな事情があったからなのだろう。貴族だらけの学術院で、ユベールのように敵意を向けられたり、蔑まれたりしたに違いないのだから。
「でも、どうしてエルランジェの学術院に?」
 もとはといえば貴族しか入ることを許されない学術院にセルジュが入ったことで、貴族のやっかみを受けてしまったのだ。
「そもそも、私は普通の教育も受けてはいませんでしたし、読み書きも習っていませんでした。母と共に、教会の下働きをしていました。主に家畜の世話をしていましたね」
 あまりに意外すぎてアニエスは想像が出来なかった。今でこそ本ばかり読んでいるが、昔はきちんと肉体労働をこなしていたのだ。
「毎日教会に出入りしていたので、聖歌は毎日聞いていました。また、教会では聖書を朗読したりもするのですが、まあ……記憶力は昔からあったようで、すぐに覚えてしまったのです」
「じゃあその記憶力を買われてってこと?」
「それもあるのですが……七歳の時に、聖歌の楽譜を見せてもらったことがあるのです。見たこともない文字でしたが、その配列を見ていると、歌詞との符合が見えてきて……そこで文字を覚えたのです。先に覚えたのは古語の方ですが」
 アニエスは咄嗟に理解できなかった。まるで習ったことのない文字を、頭にある歌詞と照らし合わせただけで、まるで暗号を解くように、文字を探り当てながら理解してしまったということが。
「聖書も貸してもらってよく眺めていました。おそらく、私が文字を理解して読んでいるとは母も教会の人もその時は気付いていなかったのでしょうが。私が借りて読んだ聖書は、傷んでいて読めない箇所が何カ所かありました。それが気になったので、神父様に話の続きを訊ねてみたのです。すると、説法でも一度もしたことのない話の筋をなぜ私が知っているのか、驚きながら訊ねられたので、正直に本のことを話したのです。神父様は私に文字が読めると思っていなかったため、大層驚いていました。けれど、それから折を見ては、私に勉学を教えてくれるようになりました。教会にある蔵書も特別に読ませてくれたのです」
「セルジュは昔から本を読むのが好きだったの?」
「そうですね。神父様が一つずつ貸して読ませてくださる本が、あの日々の中、唯一の楽しみでした。神学に関するものばかりでしたけれど、読んで感想を言うと、いつも誉めてくれました……多分、それが嬉しかったのでしょう」
 セルジュの言葉がいつもより柔らかいようで、アニエスはそっと顔を覗き見た。懐かしむような、温かい眼差しがそこにあり、アニエスは見たこともない彼を見たようで心臓が高鳴るのを感じた。セルジュもアニエスと同じなのだ。大好きな人に誉めてもらったり、理解してもらえるのは、何よりも嬉しいに違いない。
「他に比べる相手もいなかったので、自分の能力が人より秀でているのかなんて考えたこともなかったのですが……ある日、神父様が神妙な顔をしておっしゃったのです。ここにいては才能を埋もれさせてしまうだけだから、王都にある学術院に行くように、と。推薦状を書くから、そこでしっかり勉強をして、才能を開花させれば母にも楽をさせてあげられると。迷いはありませんでした。それが十四歳の時です」
「そうだったの……お母様はお元気なの?」
「ええ、おかげさまで。デュクロ様から充分すぎるお給金をいただいているので、生活は安泰です。本当にありがとうございます」
「お母様に最後に会ったのはいつ?」
「村を出てから会ってはいませんが、元気で暮らしています。手紙のやりとりはしていますので」
「そう……」
 アニエスは訊いたことを後悔した。確かにセルジュがアニエスの家庭教師となってから、長期間屋敷を離れたことなど一度もない。それぐらい彼を縛り付けていたのだ。彼に養うべき家族がいるなど、アニエスは考えもしなかった。自分のそばにいてくれればいいなどと、自分勝手に思っていたのだ。
「近いうちに、アニエス様も母に会っていただけますか?」
 思いがけないセルジュの言葉に、アニエスは驚き顔を上げた。
「え?」
「お互いの親を紹介するのは、当然のことでしょう?」
 アニエスの薬指にはめられた指輪に触れると、セルジュは耳元で囁いた。
「ただ、デュクロ様を完全に納得させるにはまだ時間がかかりそうです」
 アニエスは笑った。でも、きっとそう遠くない未来に夢は叶うのだとそう信じている。
「ねえ、セルジュ。もう一度誓って。必ずわたしと一緒になってくれるって」
 セルジュと正面に向かい合うと、アニエスは頬を薔薇色に染めて消え入りそうな声で呟いた。
「それから、この前の続きをしてほしいの……」
 未だに唇を奪ってくれない事実がアニエスには不満で仕方がない。父の許しなどどうだっていいのに、遠慮しているのか、アニエスが子供だと思っているのか、恋人同士だというのに物足りないこと甚だしい。
 心持ち顎を上げ、瞼を閉じる。身体が全部心臓になってしまったかのように、鼓動が耳元で感じられる。セルジュの手が肩に触れ、彼の体温を感じるだけで、幸福感に包まれる。
「どんな困難が訪れても、あなたを守り、あなたを愛すると誓います」
 物語の台詞ではないその言葉は、真実彼の心からの誓いなのだろう。
 アニエスの額に優しい熱が移される。不満げに目を開けると、悪戯っぽい表情のセルジュと目が合った。
「意地悪」
「デュクロ様の逆鱗に触れては困りますから」
 それは建前なのだとアニエスは思う。セルジュは、じらされて不満げなアニエスをからかっているに違いない。
「セルジュがしてくれないなら、わたしからする!」
「それは困ります。男の沽券に関わります」
「知らないわ。寝込みを襲うからね!」
「そんなことをなされては、デュクロ様が正気を失いますよ。……まあ、正気を失わせるには有効な手かもしれませんが」
 唇同士が触れあうことはなくても、アニエスは以前よりずっと近くにセルジュを感じられるようになったのだった。

 

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