第三話 来訪者は突然に


 あっという間に祝賀会の日がやってきて、アニエスは初めての遠出にうきうきと心を弾ませていた。ユベールの屋敷まで、馬車で半日ほどかかるというが、その道程さえアニエスには長いとは感じられなかった。アニエスとセルジュとルイーズの三名を乗せた馬車は順調にその進路を進めていた。
「ねえ、パーティーにはどんな人が集まるの?」
「学術院の関係者が多いのではないでしょうか。彼の功績を讃えるのが目的の祝賀会ですから」
「わたしはセルジュの方が凄いって集まった人たちに言っておくわ」
「アニエスお嬢様、お呼ばれしたのですから、たとえ本心になくても、まずはユベールさんをお祝いしなくてはいけませんよ」
 出発前にアニエスは何度もパーティーでの基本的なマナーを教え込まれた。初めてアニエスが顔を出す社交の場としては今ひとつ地味だとデュクロは不満げであったが、アニエスはやる気満々だった。得意満面なユベールの鼻っ柱を折ってやりたいと息巻いていた。
「アニエス様、お気持ちは嬉しいのですが、あまり彼を刺激しない方がよろしいかと。これ以上絡まれるのは、もううんざりなので」
「でも……セルジュを見下されるのなんて我慢できない」
「あなたにそう思ってもらえるだけで、この上なく幸せですよ」
「セルジュ……」
「あらあら、わたしがついてきてしまって、お邪魔だったかしら」
 熱い視線で見つめ合う恋人達を前に、ルイーズは居心地悪そうに肩をすくめた。
「もう、ルイーズったら。そんなことないわ。あなたがいてくれなくては困るのよ。あなたがいるからこそ、お父様も許してくださったの。わたしたちが、とても健全なお付き合いをしてるって報告してくれればそれでいいのよ」
「あら、わたしからわざわざ言う必要はきっとありませんよ。アニエス様の幸せそうなお顔が何よりの証拠ですから」

 ユベールの屋敷に到着する頃には、既に夕方になっていた。来賓用の部屋に通されたアニエスは、ルイーズに手伝われ、夜会用のドレスに着替えることとなった。
「ちょっと、大人っぽすぎるんじゃないかしら」
 深紅のドレスは光沢のある生地で、胸元と肩が露出している。ドレスの見立てはルイーズに任せていたものだから、アニエスはここに来て初めて今日のドレスを知ったのだった。
「あら、そんなことありません。よくお似合いですよ」
「本当?」
 デュクロの前で着ていれば、絶対に怒られそうなドレスではある。まさかルイーズがそういう衣装を選ぶなど、デュクロもつゆほどにも思わなかったのだろう。
「本当ですよ。大体、いつまでもアニエスお嬢様が子供だとセルジュさんに思われては困りますから。ふふ、彼の反応が楽しみですね」
 なんだか嬉しそうなルイーズの様子が理解できず、アニエスは首を傾げた。けれど、念入りにお化粧をしてもらい、髪も高く結いあげてもらった。少なくともいつもよりは可愛くなっていると思いたい。
「さあ、出来ました。早くお披露目してきましょう」
 ルイーズの弾んだ声に後押しされるように、アニエスは高鳴る鼓動を抑えきれないまま、セルジュの待っている場所へ向かった。

「ルイーズさん、やりすぎですよ……」
 恐る恐るセルジュのもとへ向かったアニエスだったが、アニエスの呼びかけに振り返るなり、まずセルジュは絶句した。そして、ようやくため息と共に漏らした台詞がこれだ。
「え? 何? お化粧が濃すぎたってこと?」
 アニエスは慌ててもう一度自分の身なりを確認した。けれど、今更どうしようもない。
「……そうではありません。いつも以上に魅了させて、どうするつもりなんですか」
 どうやらセルジュはこの格好に失望しているわけではないようだった。
「え……じゃあ、変じゃない?」
「よく似合っていますよ……むしろ似合いすぎです」
「良かった……セルジュにそう言ってもらえるのが、一番嬉しい」
 アニエスがはにかみながらそう呟くと、セルジュは思いがけない強さでアニエスを胸に抱き寄せた。
「セルジュ……?」
「あなたが魅力的すぎるからいけないんです。本当はパーティーにも出て欲しくないくらいですが……知らない男と目を合わせないことあたりで手を打ちましょう」
 アニエスはセルジュの胸に額を押しつけると、軽やかな笑い声を漏らした。
「笑うところではありません」
「だって、セルジュがお父様みたいなことを言うんだもの」
「……確かにそうですね。今なら嫌と言うほど、デュクロ様の気持ちがわかります」
 アニエスは笑いを収めると、セルジュを見つめた。
「セルジュ、わたしの我が儘を聞いてくれてありがとう。今夜は思いっきり楽しむわ。だから、セルジュも出来るだけ笑って欲しいの」
「あなたが楽しんでくだされば、私も満たされます」
 誰にも触れさせたくない柔らかく白い首筋に、セルジュはそっとキスをした。

 祝賀会は賑やかに幕を開けた。セルジュの想像通り、会場には学術院の関係者が多数集まっていた。教師陣や同窓の若者の中には見覚えのある顔がいくらもいたのだった。
 司会進行役が開会を告げると、ユベールが一段高い壇上に姿を現した。集まった人々に謝意を表すと、叙勲に至るまでの経緯を語った。エルランジェで学友と切磋琢磨した経験が今に生きているのだと、これみよがしに語る彼が、セルジュの方ばかり見ている気がして、アニエスは良い気持ちがしなかった。これだけ大がかりなことをしておきながら、ユベールはたった一人を呼び出しては優越感に浸りたいのだと思うと、形ばかりの笑顔も作れない。
 長かったユベールの挨拶が終わると、楽団が奏でる音楽が流れ出し、パーティーは始まった。
 アニエスは物語で憧れたパーティーが目の前に広がっていることに、ようやく機嫌を直した。ドレスで着飾った美しい令嬢や淑女。礼服を着こなした紳士達。シャンデリアに照らされ、美しく輝いたシャンパン入りのグラスを差し出されると、アニエスは笑顔で受け取った。辺りを見回してみると、皆思い思いに話を楽しんでいるようだった。
「アニエス様、申し訳ありませんが、少し挨拶に行って来ます」
「ええ、わたしも行くわ」
「いえ、アニエス様はここにいてください。とにかくこちらから挨拶に行かなくては機嫌が悪くなる人たちばかりなんです」
 学術院の関係者なら間違いなく貴族だろう。だとすれば、セルジュから挨拶に行かなければいけない事情はわかる。けれど、アニエスも連れて行って欲しかった。
「すぐに戻りますから、あまり目立たないようにしてください。出来る限り、見知らぬ男とは目を合わせないでください」
「……わかったわ」
 しぶしぶ頷くアニエスを見ては、セルジュはほんの少しだけ表情を緩めると歩き去っていった。
「……せっかくだから、婚約者として紹介してくれればいいのに……」
 アニエスは不平をもらすと、うつむいた。セルジュがいなくては、華やかなパーティーも途端に色を失ったようにつまらなく感じられた。

「美しいお嬢さん、お一人ですか?」
 セルジュのいいつけに従って、広間の片隅で何をするでもなく、ぼんやりしていたアニエスは、その声に顔を上げた。目の前に年若い青年が立っていた。あっと思ったところで、ばっちりと目が合ってしまった。
「あなたのような美しいお嬢さんがお一人だなんて……これは天が私に与えてくれた幸運に違いありません」
 芝居がかった仕草で距離を詰められ、壁際にいたアニエスは逃げ場をなくした。物語であれば、おそらくヒーローとヒロインの出会いの場面であろうが、アニエスにはもう心に決めた人がいるのだ。出来れば、他を当たってもらいたい。
「恋人と来ておりますの。今は所用で離れておりますけれど……」
 淑やかな令嬢ぶって丁寧に答えてみたが、相手は引き下がらなかった。
「なんと、既にお相手がいらっしゃるのですか……それは残念。しかし、私ならあなたのような可憐なお嬢さんをこんなところで一人で待たせたりしません。随分と酷い男ではないですか? どこの遊び人ですか」
「遊び人どころか、真面目すぎて困ってしまうくらいの人です。挨拶に忙しいので、わたしを気遣ってくれているのです」
 もっともらしい理由をつけてはみたが、すぐ戻ると言ったわりに、セルジュはなかなか戻ってくる気配がない。ユベールに会って嫌な思いをしていなければと願うばかりだった。
「そうでしたか……では、その彼が戻ってくるまで、私はあなたのお相手を務めさせていただきましょう。一体どんな顔か見てみたいものですから」
「け、結構です! 本当は他の男の人と目も合わせちゃいけないと言われているので……」
「それはまた独占欲の固まりみたいな男ですね。ますます興味深い」
 いっこうにアニエスの前から立ち去ってくれない男に困り果て、アニエスは助けを求めるように薬指の指輪に触れた。願いを込めて、セルジュの名を心の中で呟く。
「お嬢さん、その指輪は……?」
 青年はアニエスの触れている指輪に気付くと、驚いたように目を見張った。アニエスは得意気に左手を差し出した。
「彼から贈ってもらった大切な婚約指輪です。わたしは彼と生涯を共にします。だから……」
「お嬢さん、騙されていますよ!!」
「え……?」
「この指輪、どう見ても安物じゃないですか。こんな安物を婚約指輪にするなんて、どう考えてもその男は結婚詐欺師です! どいつですか? 私が今から捕まえてきます!」
 アニエスは唇を噛んだ。確かに指輪は街の露店で買えるような安物に違いない。けれど、アニエスにとってはお金以上の価値があるのだ。それを、いちいちこの男に説明する気はない。ただ、悔しかった。この煌びやかな世界ではそれだけで全てを判断されてしまうのだと。
「わたしの大好きな人を悪く言わないで。あなたにいくら最高級の指輪を贈ってもらっても嬉しくなんてない。乙女心とはそういうものなのよ」
 アニエスが鋭い視線で睨みつけると、相手はたじろいだ。まさかおとなしやかな令嬢がそんな言葉を返してくるとは想像もつかなかったのだろう。
「ごめんなさい、お待たせしたわね」
 その場にあった緊張感は、その一言で綻びた。アニエスが声のした方を見ると、声の主は既にアニエスの肩を抱いて、その場を離れにかかった。呆気にとられているだけの青年をあとに、アニエスはなされるがまま、広間を移動した。
「あ、あの……」
 アニエスはちらりと横に立つ人物を見上げた。
 美しい女性だった。銀の髪に青い目をした二十代半ばくらいの背の高い彼女は、濃紺のドレスがよく似合っている。
「セルジュの予感は正しかったみたいね。あなたみたいな可愛らしい子を坊ちゃん連中が放っておくわけないもの」
「セルジュ? セルジュを知っているんですか?」
「彼に頼まれたのよ。変な連中が寄りつかないように見ていて欲しいって。ごめんなさいね、ややこしい人たちに掴まってるから、彼はまだ戻って来れないのよ」
「そ、そうだったんですか……」
 ほっとしたような、寂しいような。けれど、この女性がいてくれるなら心強い。
「あの、お名前を伺ってもいいですか?」
「ごめんなさい、名乗りもせずに。わたしはロシェル。セルジュとはエルランジェで一緒だったのよ」
「ああ、そうなんですか。良かった。セルジュにも、きちんとしたお友達がいたんですね」
「きちんとしてるかはわからないけど……それより、セルジュと恋仲って本当なの? あのセルジュが、どんな顔してあなたを口説いたの?」
 急に好奇心を全面に押し出してきたロシェルに、アニエスはたじろいだ。
「ごめんなさいね。向こうはその話で持ちきりで。あなたが来たいって言ったからセルジュは来たのでしょう? セルジュはユベールの招待になんて死んでも応えないと思ってたから、意外だったのよ。でね、わたし、女の勘でぴんときたのよ。だから問い詰めたら……あなたのこと、何に代えても優先すべき大切な人だとか言って!! 今、学友連中が鋭意取り調べ中だから。いろんなこと聞き出すまで、解放されないと思うわ」
「……」
 そんな理由で掴まっていたのかと呆れるような、ユベールに嫌みを言われるよりいいような複雑な気分だった。
 けれど、ロシェルはセルジュのことを理解してくれているようで、アニエスは誰かに聞いて欲しかった気持ちをぽつぽつと語り出した。
「……ずっとわたしの片想いだと思っていました。セルジュは全然愛想もなかったし……。でも、いつもわたしのこと、一番理解してくれてたんです。わたしの望んだようにしてくれて……。今日だって、本当は嫌だったはずなのに、わたしがどうしてもって言ったから……」
 言っていて涙が出そうになった。ロシェルの言葉からも、セルジュがここにいかに来たくなかったかということがわかり、罪悪感が募った。
「でも、セルジュはあなたの家庭教師になって良かったんだと思うわ」
 ロシェルはアニエスの頭を抱き寄せると励ますように肩を叩いた。
「セルジュが卒業するとき、王様つきの学者になるって話も来てたのに、なんで雇われの家庭教師になんてなるのか理解不能だったけど……きっとそれで良かったのね」
「え? 王様つきって……」
「そうそう、いずれは宰相になれるかもってとびきりの話だったのに。爵位だってもらえて、今頃ユベールよりも高い地位を手に入れていただろうにね。でも、彼は昔から地位とか名誉とかに興味はなかったからね……。でも、他にも道はあったのよ。それこそ引く手あまたに」
「じゃあ、どうしてわたしの家庭教師に?」
「それは本人に聞いてみないとわからないけど……やっぱり運命を感じたんじゃない? まあ、良かったじゃない。楽しそうで元気そうだし」
 胸がじんわりと温かくなっていく。運命だなんて。けれど確かにそうなのかもしれない。何かがひとつでも変わっていたら、きっと二人は出会うことさえなかったのだから。
「アニエス嬢、本当にいらっしゃってくださったのですね」
 不意に横手からかけられた声にアニエスは身を固くした。忘れるはずもない、善良さを装ったこの声はユベールのものだ。

 

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