第四話 蜜月は約束の向こうに


 毎日恒例のセルジュとの楽しい勉強の時間が今日も終わった。このあとは、別の教師の授業も入っていない。アニエスはうきうきとした様子で、教材を片づけているセルジュに声を掛けた。
「ねえ、セルジュ。このあとは図書館に行くの? わたしも一緒に行っていい?」
 次のデートとして許されている日までまだ間がある。外に出ることは出来なくても、図書館で二人きりで過ごすことはアニエスにとってデートの次に楽しい時間だった。
「……申し訳ありません。今日は自室で調べものをしたいので……」
「あ、そうなの……そうよね、セルジュにだってしたいことはあるでしょうし」
 そう言いながらもアニエスの声は自然と沈んでしまった。セルジュの瞳が、その変化を捉えて翳りを帯びる。しかし、それ以上何も言わずに彼は部屋を出て行った。
「……なんとなくだけど。最近セルジュがあんまり構ってくれない気がする……」
「そうですか? そんなことないと思いますよ」
 しゅんとうなだれたアニエスに、ルイーズは励ましの言葉をかけてくれた。
「でも……なんだか疲れたような顔もしてるし……。パーティーから帰って以来よ。やっぱりユベールさんと会うのが嫌だったのかなあ……」
 二人の絆は深まった気がするのに、帰ってきてからというもの、セルジュはあまりアニエスと一緒の時間を過ごしてくれなくなった。ともすれば、勉強の時間もさっさと切り上げようとする。
「わたしが我が儘だから、愛想つかしちゃったのかしら……どうしよう、ルイーズ」
 真剣に悩み出したアニエスを、ルイーズは安心させるように抱きしめた。
「大丈夫ですよ。あの人がお嬢様を嫌いになることなどありませんから。それより……もし、お嬢様がセルジュさんを元気づけたいと思うなら、どうしたら喜ぶか考えてみたらいかがですか?」
「セルジュが喜ぶこと……?」
 アニエスは考えた。本を読むこと以外にセルジュが好きなことは何だろうか。しかし何も思いつかない。アニエスは自分がしたいことならいくらでも思いつくのに、セルジュが喜びそうなことの一つも思いつかない自分に嫌気が差した。
「わたしはいつも、自分のしたいことばかり、セルジュに押しつけていたのかもしれないわ……」
 ぽつりと呟くと、胸が痛んだ。今までの分を取り返せるぐらいセルジュに喜んでもらうことがしたい。アニエスは必死に考えた。

「ねえ、セルジュ」
 いつものように、勉強の時間が終わるとさっさと帰ろうとするセルジュをアニエスは呼び止めた。
 あれから三日間ほど真剣に考えてみたアニエスは、ようやく答を見つけた。それが本当に一番なのかはわからないけれど、多分、アニエスから言い出さなければ決してセルジュが得られないものだ。
「毎日わたしに勉強を教えてくれてありがとう。セルジュといる時間が楽しくて、わたし、自分のことしか考えてなくて……今まで大切なことに全然気付いてあげられなくてごめんなさい。でも、この前わたしに話してくれたでしょう。……それなのに、それでもこんなに遅くなっちゃったんだけど……」
 セルジュはアニエスの言いたいことがわからずに首を傾げた。セルジュがいつものようにアニエスの行動を予想することが出来ないくらい、自分にその考えがなかったのだと改めて反省する。
「セルジュ、お母様に会いに行ってあげて。ここに来てから三年間、長期のお休みなんて取ったことないでしょう? それどころか、学術院を卒業してすぐにここに連れて来ちゃったから、本当にどれほど長い間お母様に会っていないかと思うと……本当にごめんなさい」
 セルジュは心底驚いたように目を見張った。けれどすぐにいつもの彼の言葉が返ってきた。
「そんなことを気にされていたのですか。ですが、私はここに置いて頂けているだけでありがたく思っています。母が安心して暮らせるのも全てデュクロ様とアニエス様のおかげですから」
「でも! 会いたくないわけないでしょう? セルジュのお母様だって……きっと寂しい思いをしているわ。わたし、自分のことしか考えてなくて、セルジュはわたしがどれだけ両親に愛されているか教えてくれたのに……わたしはセルジュにも同じようにあなたを大切に思うお母様がいることにすぐに思い至らなかったの……本当にごめんなさい」
「アニエス様……」
 セルジュはアニエスの頬に手を伸ばしかけ──ここが屋敷の中だと気付くと引っ込めた。
「ねえ、お願い。一度でいいから帰ってあげて。それで元気な顔を見せてあげて」
「お気遣いはありがたいのですが、今は……」
「遠慮しないで。だって、最近セルジュ元気ないじゃない。わたしだって、セルジュを元気づけてあげたいの」
 アニエスの言葉と瞳に隠された気持ちに気付いたように、セルジュは一瞬だけ辛そうに顔を歪めた。けれど、何かを決意したように、すぐに言葉を続ける。
「……そうですね。せっかくのお申し出ですし……まとまった時間がいただけるのは助かります」
「行ってくれるの? 良かった! 好きなだけ行ってきていいのよ。お父様にはわたしから言っておくから」
「あまりお待たせするつもりはありません。……出来る限り早く帰ってきます」
 その言葉は、まるで自分に言い聞かせているかのようだった。

 セルジュの出立の日はすぐにやってきた。アニエスは馬車に詰め込まれる荷物を不思議そうに眺めた。
「どうしてそんなに荷物が多いの?」
 あまり身の回りの品など持ち合わせていないはずのセルジュだというのに、馬車の荷台には大量の荷が積み込まれていた。
「本を借りていこうと思いまして。神父様に見せて差し上げたいと思うので」
「ああ、そうなのね。ちゃんとお母様にお土産持った? わたしからのお手紙もきちんと渡してね」
「……はい」
 言葉少なに頷くと、セルジュはさっさと馬車に乗り込んだ。デュクロが御者に何事かを告げると、馬車は静かに動き出した。
「いってらっしゃい!」
 アニエスが手を振ると、セルジュもわずかに手を挙げ応える。屋敷の皆に見送られる中、馬車はやがて見えなくなった。
「寂しくなりますね」
 ルイーズが呟いた言葉にアニエスは首を横に振った。
 今まで彼が自分に与えてくれたものの大きさに比べたら、アニエスの感傷はきっとちっぽけで我慢するべきものなのだと思えたから。

 セルジュが屋敷を出てからの数日間は、アニエスは自分がセルジュのために役に立てたのだという満足感もあって、寂しいと感じることもなかった。セルジュが不在の間にも勉強を続けられるようにと宿題が残されていたので、アニエスはセルジュが帰ってくるまでにきちんとそれをやり遂げて誉めてもらおうと、誰に言われずとも熱心に勉学に励んでいた。
 一週間を過ぎたくらいに、アニエスはセルジュが残した宿題の一つとして、古語で書かれた本を読んでいた。あれほど苦手だった古語だが、今は一人でもなんとか少しずつ読めるようになっていた。
「えーと、これは確か推量を示す言葉だったはずよね。その中でも二種類あって……これは伝聞かしら? それとも婉曲? ねえ、セル……」
 途中まで出かかった名前で我に返る。振り返ったところでいつもそばにいた彼はもうここにはいない。そんなことはわかっていたはずなのに。三年という月日は思いの外長く、セルジュがいることが当たり前のようになっていた事実に今更気がつく。
「寂しいなんて思っちゃいけないのよ。わたしが言い出したことだもの。何よ、まだたった一週間じゃない。セルジュのお母様はもう八年も会ってないっていうのに……」
 気持ちを振り切るようにもう一度本に目を通す。けれど、ちっとも頭に入らなかった。

 ついに一月が過ぎた。セルジュから、短い手紙が届いた。
『帰るまで、もう少しかかりそうです』
 アニエスはセルジュの母が喜んでいるのだろうと想像しては嬉しくなった。それならばもう少しぐらい待てる。初めて自分がセルジュのためにしてあげられたことなのだから、とても誇らしかった。
 セルジュが帰ってくるまでにと、フェリクスにも菓子作りを学んだ。あれからセルジュにはまだアニエスが手作りした菓子を食べてもらっていない。せっかく期待してくれるなら、上手になってから食べさせたいと思っていたのだ。彼のいない隙に、うんと上達して驚かせてみせるのだ。そんな風に思っている間は、まだ気が紛れていたのだった。
 二月が過ぎた頃から不安になった。あれ以来手紙は来ない。アニエスも何通か書いてみたが、返事はなかった。まさかこのまま帰ってこないわけはないと思いながらも、心に不安が忍び寄る。
 セルジュにとってベルリオーズ家は窮屈だったのだろうか。故郷に帰り、のんびりできる毎日を再開して、今までの生活に嫌気が差したのではないか──。いろいろな想像が頭を巡り、アニエスはそわそわと落ち着きをなくしていた。
 デュクロもルイーズもそんなアニエスを心底心配してくれた。ふさぎがちなアニエスに元気を取り戻させようとした二人は、アニエスのもとにジョエルをやり、外へ連れ出し気を紛らわせようとしてくれたのだった。
「ほら、ここによく野兎が出るんだ。僕が捕まえたのもここら辺だよ」
 近くの森に歩いていくと、ジョエルが森の中を案内してくれた。よくここに来るという彼は迷いのない足取りで進んでいく。
「アニエス、元気出してよ。せっかく外に出られたんだよ。楽しまなきゃ」
 ジョエルの言うことは理解できるが、アニエスの心は晴れなかった。確かに、以前は屋敷の外に出ることをあんなに切望していたというのに、今は何も楽しいと思えなかった。
「次はこっち。泉の水で顔を洗えばきっとすっきりするよ」
 手を引かれ、歩く内に小さな泉が見えてきた。しかしそれはアニエスの心を晴らすどころか切なくさせた。
 初めてセルジュとデートに来たのはこの森の泉だった。手を繋いで、ミートパイを食べさせてあげて。そうして大切なことをアニエスに教えてくれたのだ。
 ジョエルが繋いでくれる手は温かい。でも──セルジュのようなアニエスの胸をときめかせる熱はない。
「……いたい」
 気付かないうちに、震える唇が言葉を紡いでいた。
「……セルジュに……会いたい……」
 会えないことが、彼がそばにいないことがこんなに寂しいなんて思わなかった。いつだってセルジュは大切なことをアニエスに教えてくれる。アニエスにとってセルジュがどれだけ大きな存在だったか。
 そうしてルイーズがいつか言っていた言葉を痛いくらいに感じていた。
 ── 一緒にいられる……それが素晴らしいことじゃありませんか。
 あのときの自分は、それがいかに大切なことか気づきもしなかったのだ。

「もう、見ていられません!」
 セルジュが出て行ってから三月が経とうという頃になって、ルイーズはついにデュクロに我慢の限界を告げた。
「アニエスお嬢様のあのご様子を見れば、旦那様もおわかりになるでしょう? 許してあげることはできないのですか? あんなに気落ちしたお嬢様をわたしは見ていられません……」
 デュクロは難しい顔をして執務机を前に腕を組んで座っていた。眉間には深い皺が刻まれている。
「このままでは、アニエスお嬢様が倒れてしまいます」
「それは、もちろん困るが……約束は約束だからな……」
「そんな無理難題、いくらセルジュさんでもすぐには無理ですよ。待っている間にお嬢様が倒れてしまっては意味がないでしょう? それに、お嬢様はセルジュさんが故郷に帰ったと思っているんですよ。そこから帰ってこないのは、お屋敷に帰りたくないからだと不安に思っているぐらいなんです。せめて本当のことを教えてあげなくては……」
「しかしだな……アニエスには言わないということで話はついているんだ」
「そうやって黙って一年も二年も待たせるつもりですか? お嬢様の気持ちも考えてみてください。とにかく、セルジュさんはルクレールの別荘にいると、せめてそれだけでもアニエスお嬢様に……」
「本当なの!?」
 突如として執務室の扉が開いた。そこには、血相を変えたアニエスが立っていた。デュクロもルイーズもアニエスを見るなり全ての動きを止めた。
「セルジュはお母様のところにいるのではないの?」
 先に口を開いたのはルイーズの方だった。
「申し訳ありません、お嬢様……確かに、セルジュさんは故郷に帰っていません。ここを出てずっと、デュクロ様の別荘に滞在しています」
「どうして!? わたしはお母様に会いに行くようにって、そう言ったわ!!」
「彼が自分から言い出したことなのだよ。静かで、集中できる場所を提供して欲しいと私に頼んできてね……」
「どうして……? どうしてそんなことをお父様に頼むの? セルジュはお母様に会いたくなかったの?」
「そうではないよ……。今まで君に黙っていたことは謝ろう。彼は今、ドゥグルターニュの十三の問題を全て解き明かしている真っ最中なんだ。だから、時間が欲しかった」
「あの、ユベールさんが解いたっていう? でも、セルジュは叙勲になんて興味はなかったのに……」
「私が言ったんだ。今までにない難問を解き明かし、功績を立て、爵位を得られれば、アニエスとの婚姻を許そう──とね」
「じゃあ、セルジュは……」
「お嬢様のために、今も頑張っているんです。決してお嬢様に会わなくてもいいわけじゃありませんわ」
「そんな……」
 全身をわななかせ、アニエスは痛む胸をこらえるように自分の手を握りしめた。
「わたし、セルジュに会いに行く! ルクレールの別荘にセルジュはいるのね?」
 ルイーズが頷く間もなく、アニエスは急ぎ部屋を飛びだすと駆けだしていった。

 馬車を出してもらうにも、デュクロの許可がなくては使用人達は動かない。ならばとアニエスは前回屋敷を抜け出した時のように、以前作った抜け穴から脱出した。身につけているアクセサリーを売るなりすれば、辻馬車を拾うことも出来るだろう。
 まさかアニエスが屋敷を抜け出したとは思っていないのか、すぐさま追いかけてくる様子はなかった。とにかくセルジュに会わなければ。そればかり考え、アニエスは無我夢中で街を目指して走った。
 街に来たことはほとんどなかったアニエスだが、どこで馬車を拾えばいいのかはすぐにわかった。けれど、ルクレールまでは半日ほどかかるので、長距離を走ることを嫌がり、誰もアニエスの行き先には応えてくれなかった。乗合馬車を勧められたが、ルクレールへ行く馬車は午前中に出てしまったようだった。
 途方に暮れたアニエスだったが、だからといっておとなしく帰る気にはなれなかった。デュクロのあの様子からでは、家に帰ったところで、セルジュのところに連れて行ってくれるはずはない。自力でなんとかしなくてはいけない。
 アニエスは乗合馬車の停留所でルクレールまでの方角を聞くと、歩き出した。とにかくあちらに向かっていれば、運良くルクレールの方に行く貴族の馬車が通らないとも限らない。何もしないよりはましだと考え、アニエスは気丈に歩き出した。
 しかし、半時もしないうちに足は痛みと疲労を訴え、その場にしゃがみ込んでしまった。自分一人では何も出来ない無力さに打ちのめされ、見渡すばかり田園風景が広がる道の真ん中でうずくまる。
 そんな中、遠くから蹄と車輪の音が聞こえてきた。ルクレールに向かう馬車かと顔を上げてみれば、それはアニエスがやって来た方角へと向かう馬車だった。がっくりと肩を落としたアニエスのそばを行き過ぎた馬車が不意に止まった。
「……アニエス様……?」
 名を呼ばれたことよりも、何よりもその懐かしい声が聞こえてきたことに驚いた。
 アニエスが振り返ると、止まった馬車から降りてきたのだろう、信じられないものをそこに見つけてしまったという顔をしたセルジュと目があった。呼吸が止まる。
「どうしてこんなところに? それにその格好は……」
「セルジュ……セルジュ……!!」
 乱れた髪を気にするどころではなく、アニエスは目の前のセルジュに抱きついた。何故彼が今ここにいるのかはもはやどうでもよく、ただ会えたことが嬉しかった。
「……まさか、私に会うために、ここまでお一人で来られたのですか?」
「お父様が、嘘ついて……わたし、セルジュがお母様のところにいると思ってたのに……とにかく、会いにいかなきゃって……会いたくてたまらなかったの……!」
「なんて無茶をするんですか……もし私が通りかからなかったら、歩いていくつもりだったんですか?」
「どうしてもセルジュに会いたかったの。セルジュがいない毎日なんて嫌。食事もおいしく感じられないし、大好きな物語もちっともわたしを慰めてくれないの。早くセルジュに会いたくて……」
 セルジュは何も言わずにアニエスを強く抱きしめた。ついに泣き出したアニエスを落ち着かせるように背中を撫でると、耳元に優しく囁く。
「寂しい思いをさせて申し訳ありません。でも、もう大丈夫です。デュクロ様から与えられた問題はこれで片が付きます。だから、帰ってきたのですよ」
「じゃあ、これからはまた一緒にいられるの?」
「ええ……これであなたとの婚姻も認めてもらえます。……ずっと一緒にいられますよ」
「本当? じゃあ、ドゥグルターニュの難問が全部解けたの?」
「ええ、おおよそは。あとは整理して清書するだけです」
 アニエスはまじまじとセルジュを見つめた。もともと線の細い方だったが、頬がこけ、青白い顔をしている。
「セルジュ、痩せた? 顔色も悪いみたい」
「ここ数ヶ月あまり寝ていないので」
 苦笑を漏らすその顔に浮かぶのは、それでも晴れやかな笑顔だった。
「わたしのために?」
「約束ですから。……でも、少しのはずが、随分お待たせしてしまいましたね。申し訳ありません」
 アニエスは大きく首を横に振った。自分は何も知らなかった。セルジュがどれだけ身を削ってアニエスとの約束を守ろうとしているのか。
「もういいの。セルジュが今ここにいてくれれば、それでいいの」
 どれほどこの温もりを求めたのだろう。鼓動が重なり合い、思いが一つに溶け合っていく。
「おかえりなさい、セルジュ」
 アニエスは万感の思いで呟いた。

 

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