第四話 蜜月は約束の向こうに


 セルジュが屋敷に戻ってから一週間。デュクロがそんな難題をセルジュに押しつけていたことを知らなかったアニエスは、しばらく父と口も利かなかった。困り果てたデュクロは、毎日外出してもいいという条件と引き換えにアニエスの機嫌を取り戻していた。
「それにしてもやっぱりセルジュってすごいのね」
 お気に入りの丘の上で、デートを楽しんでいたアニエスは、改めてセルジュを誇らしげに見つめた。青白かった顔も今はすっかり健康的な色を取り戻している。そして、知性を宿した緑色の瞳がアニエスを見つめる時、以前にも増して優しさと熱が込められているのだと気付くのだ。
「わたしには、ドゥグルターニュの問題がどれほど難しいのか、いまいちわからないけれど……でも、ここ数十年で誰も解決していない問題なのでしょう? それをあっという間に解いちゃうんだもの。すごいとしかいいようがないわ」
「みんな面倒だから解こうとしなかったんじゃないですか」
「そんなわけないじゃない。もう、少しは偉そうにしたらいいのに。お父様を見返してやればいいのよ。未だにお屋敷の中で指一本触れちゃだめなんて真面目に守ってるなんて馬鹿みたいじゃない」
「無事に爵位を得られたら、その規則はなくなるというところまでは持っていきましたよ」
「婚約者に触れちゃだめなんておかしすぎるもの。そんなの当たり前なのに。もう、お父様ったら……」
 それでも、今こうしてセルジュと身を寄せ合い、彼の温度を感じられることが出来れば、満足してしまうアニエスだった。
「あ、でもね。お父様も少しはいいところがあるのよ。近いうちに、セルジュは王様のところに、解いた問題を提出しに行くことになるでしょう。ちょうどもうすぐ王宮でダンスパーティーがあるんですって。だから、わたしもセルジュと一緒に王都に行って、それに参加してもいいって言ってくれたの!」
 アニエスは弾んだ声でそう告げたが、セルジュはなんだか憂鬱そうな顔をしていた。
「……セルジュはパーティーとか好きじゃないの?」
「いえ、アニエス様とご一緒できるのなら嬉しいです。ただ……」
「ただ?」
「……ダンスは苦手です」
 ドゥグルターニュの難問を解いてしまった彼は、それ以上の難問を押しつけられたような弱り切った顔をしていた。
「アニエス様を楽しませることは……おそらく出来ません」
 罪深そうに目を伏せる様を見て、アニエスは呆気にとられたが、数瞬後には軽やかな笑い声をたてていた。
「そんなこと気にしなくていいのに。ようやくわたしにもセルジュより上手に出来るものが見つかって嬉しいわ」
「些末なことではありません。私の下手さに愛想をつかしたアニエス様が他の男と踊ったりしては困ります」
「セルジュがわたし以外の人と踊らないなら、わたしだってセルジュ以外の人と踊ったりしないわ。苦手なら練習すればいいのよ。わたしが教えてあげる」
 立ち上がり、セルジュの手を取る。思えば、パーティーになどほとんど出ることもなかったアニエスに、ダンスをしっかり教え込んだ父に、今だけは感謝したい気持ちだった。
「全くできないこともないんでしょう? でも、どこで覚えたの?」
「エルランジェは貴族の集まりですから。覚えておいて損はないと学友に教えられましたが……挫折しました」
「じゃあまずはステップから。セルジュなら教本を読めば頭には入るでしょう? あとは実践するだけ。毎日猛特訓よ!」
 
 オリオール王国の王都ドラクロワに、現国王であるアルフォンスが住まう王宮がある。王都にはエルランジェ王立学術院があり、人や物が集まるだけでなく、学問の都でもあった。
「セルジュはどのあたりに住んでいたの?」
 初めて見る街並みを好奇心に満ちた輝く瞳で見渡しながら、アニエスは訊ねた。
「学術院に通う者のために寮があったので、そこに住んでいました」
 馬車から窓の外に視線を遣りながら、セルジュは淡々と答える。その瞳に懐かしいものでも映していないのかと、アニエスは思わず顔を覗き込んでしまった。
「あんまり嬉しそうじゃない?」
「そんなことありませんよ。王様に証明を提出すれば、目的は大体達成されるのです。ようやくお約束を果たせます」
「約束だなんて重荷に思わないでね。……いつもセルジュに何かをしてもらってるばっかりで、悪いと思っているのよ。でもね、セルジュがいなくなって初めて気付いたの。わたしはセルジュと一緒にいられるだけで幸せなんだって。もう、何もしなくていいから、わたしのそばにいてね」
「……はい」
 幸せそうにセルジュの胸に顔をすり寄せるアニエスと、その肩を優しく抱き寄せるセルジュ。以前も見たような光景を前に、同席しているルイーズはただ黙って笑顔で見守るのだった。

 王宮でのダンスパーティーは年に二度行われるのだという。参加できるのは、王族と上流貴族だけ。父と母も度々参加していたのだと、アニエスは支度の最中ルイーズから聞いた。
「今回はあまり美しくしすぎないようにと、セルジュさんから釘を刺されてしまいました。それでも充分可愛く仕上がってしまったので、また怒られるかもしれません」
 ルイーズはどこか楽しげに呟くと、鏡に映るアニエスを誇らしげに見つめた。今回は少女らしい淡い桃色のドレスだった。肌の露出も控えめで、可愛らしさの方が先に立つ。
「セルジュはわたしが綺麗じゃない方がいいの?」
「自分だけに見せるならいいんです。でも、他の殿方の目にも美しく映ったら──アニエスお嬢様の美しさに目を奪われた殿方がいちいち声を掛けてきたら、追い返すのが面倒だと思ったんですよ」
「綺麗な人なら他にもいっぱいいるじゃない。考えすぎなんじゃないかしら」
「ふふ、まあそうだとしても……お嬢様を大切に思うセルジュさんの気持ちもわかってあげてください」
「うん……ねえ、本当に可愛く見える? 変じゃない?」
 何度も鏡に向かって確認するアニエスに、ルイーズはその度に頷いて見せた。

 宮廷楽団が奏でる音楽に乗せ、美しく着飾った紳士淑女が華やかに舞い踊る。
「今の、とても上手だったわ」
 ダンスを終え、アニエスが笑いかけると、セルジュは複雑そうな顔をした。
「ここまで踊れるようになるまで相当の労力を要しましたよ。難問を解いている方が、気が楽です」
「ふふ、わたしは嬉しいわ。初めてわたしがセルジュに何か教えてあげられたんだもの」
 曲が変わるたび、ダンスのパートナーも変わるものだが、二人はいつまでも一緒に踊り続けていた。
「残念だな。アニエス嬢と踊る機会は得られないというわけですね」
 曲の合間にかけられた声の方に、二人同時に視線を向ける。セルジュの身体に緊張が走ったことが触れた部分からアニエスに伝わる。それは一番会いたくない人物だった。
「ユベールさんもいらっしゃっていたんですね」
 アニエスはとりあえずにこやかな笑顔を向けた。
「私の家名では、参加するに値しないのですが……先日勲章をいただきましたから。その縁で私も招待いただいたのです」
 すっかり油断していたアニエスは内心ほぞをかんだ。ユベールが来るとわかっていれば、行くことを考え直したというのに。
「可愛らしいお嬢さんがどんな誘いも断って一人の男と踊り続けていると噂ですよ。知らない仲ではないのですから、私とも踊ってくださるかと思っていましたが……どうやら無理なようですね」
 ユベールは意味深にセルジュを見つめた。アニエスは直感した。どうせまたあのくだらない噂を広めようとしているのだと。だから、今度は言われる前に先手を打つことにした。
「そういえば、ユベールさんはセルジュに対する心ない噂に心を痛めてくださっていましたよね。もう、何も心配いらないとお知らせしておきますわ」
「ほう、それはどういうことですか?」
 あくまで優位に立とうとしているユベールに対し、アニエスは誇らしげに宣言した。
「セルジュは近々爵位を得ます。地位など、わたしと結婚せずとも独力で得られるのです」
「アニエス様!」
 焦ったように叫ぶセルジュの声が耳に届く。けれどそれよりも。その時ユベールの顔に浮かんだたとえようのない表情に心臓を掴まれたようだった。
「失礼します」
 セルジュは強い力でアニエスの手を引きその場から離れた。あとに残されたユベールは、こちらを振り返ることもなく、その場に立ちつくしたままだった。
「ユベールに言うべきではありませんでした」
 緊張をはらんだその声に、アニエスは自分が大きな過ちを犯したのだとようやく気付いた。
「ごめんなさい……でも、あの人にセルジュのことを悪く言われたくなかったの」
「アニエス様のお気持ちはありがたいのですが……言わせておけば良かったのです。少なくとも、それであの人が満足するのなら、こちらに害はありません」
「で、でも、セルジュはもう王様に提出したんだもの。いずれあの人にも知れることでしょう?」
「そうですが……」
 不安そうなアニエスに気付くと、セルジュは安心させるように顔に笑みを乗せた。
「そうですね。おそらく私の杞憂に終わるでしょう。何も心配いりません。もう、あの人に関わることはないでしょう」
 広間からの楽の音が遠くに聞こえる。二人は広間を抜け出し、夜風の当たるバルコニーに出た。今夜の月は満月に近い。二人の思いも、この月のようにいずれ満ちるのだとアニエスは嬉しくなった。
 熱気に満ちた室内から外へ出たことで、少し肌寒さを感じたアニエスは身震いした。セルジュがすぐさま身につけていた上着をアニエスの肩にかけてくれた。
「……ありがとう。ねえ、セルジュ。爵位を得たら、きっともう悔しい思いをしなくて済むのよ」
 今日のパーティーでも、セルジュが貴族でないと知るや、蔑むような目で見る者達も少なからずいた。上流階級になればなるほど、身分というものを重視する風潮があるのだ。
「きっと……何も変わらないと思います。周りの目は変わるかもしれませんが、私自身は何も変わりません。爵位を得ても、アニエス様が震えていたら上着をお貸しします。変わりません……あなたへの想いと同じように」
 アニエスは顔を上げた。セルジュは昔から本当に欲がないのだ。それに、誰かを見返してやりたいという思いもないようだった。アニエスには言わないまでも、おそらく今まで辛い思いをしてきただろうに。
「わたしだって、セルジュに肩書きが欲しいわけじゃないわ。でも、セルジュはもう少し我が儘になってもいいと思うの。なんだかこっちが悔しいわ」
「じゃあ、お言葉に甘えて……しばらくアニエス様を独り占めさせてください」
「え……」
「だめですか?」
「だ、だめじゃないけど……」
 言われている意味がわからなくて、心臓がばくばくと跳ね回る。セルジュの瞳がいつも以上に熱を帯びてアニエスを見つめているようで、覚悟を決めて目を瞑る。ようやく待ち焦がれていた時が来たのだとアニエスは悟った。
「そういう無防備な顔は他の人に見せないでくださいね」
 言葉と共に口づけが降ってくる。けれど、唇ではなく額にだった。
「それは我が儘じゃなくて意地悪っていうのよ」
「拗ねた顔を見られるのも役得というものです」
「セルジュの意地悪!」
 月明かりはそんな恋人達を優しく照らし出していた。

「せっかくだから、少し王都を観光していきたい」
 全ての用事がつつがなく済んだところで、アニエスはセルジュとルイーズに要望を伝えた。
「セルジュが過ごした街並みを見たいし、案内して欲しいの」
「そうですね。せっかく遙々来たのですもの。これもセルジュさんとお嬢様の努力のたまものですから。……わたしから旦那様にお伝えしておきます。お邪魔してはいけないので、わたしは先に帰りますね」
「ルイーズ大好き!」
 アニエスがひしと抱きつくと、ルイーズは優しくアニエスの髪を撫でた。
「セルジュさん、くれぐれもお嬢様をよろしく頼みますね」
「はい、もちろんです」
 ルイーズと別れたところで、アニエスはいそいそと大切にしまってあった王都の地図を取り出した。
「あのね、行きたいところに丸をつけてあるから、ここ全部回りたい。どれぐらいかかるかしら?」
「アニエス様も用意周到になりましたね……全部でしたら一週間くらいはかかるかと」
「あら、そんなに。でも、お父様は今回ひどいことをしたのだから、それぐらいきっとどうってことないわ。行きましょう、セルジュ」
 手を繋げば、ずっと憧れていたものが、もうすぐそこにあるのだと感じられた。

 充分すぎるほど王都を観光し、そろそろ明日にも帰路につこうかという夜に、宿の部屋をノックされた。そっと開けてみると、宿の女主人がそこに立っていた。
「あなたに手紙を渡して欲しいと言付けられてね」
 封筒に差出人の名はなく、アニエスは不思議に思いながらも受け取ると、部屋に戻り椅子に座って封筒を開けた。
 読み始めてすぐにアニエスは顔色を変えた。唇を噛みしめると、悔しさに涙が出そうだった。それでも立ち上がると、帽子をかぶり、身支度を調える。
 宿の前で一度だけセルジュのいる部屋の方を振り返ったアニエスだが、決意を固めたように夜の街に飛び出していった。

「お望み通り来てあげたわ」
 アニエスは不機嫌な顔を隠そうともせず、目の前に立つ人物を睨みつけた。
 手紙の差出人は、待ち合わせ場所を指定しており、アニエスがそこに行くと馬車が待っていた。馬車に乗せられ、連れていかれた場所は、王都からさほど離れていないようだった。
「必ず来てくださると思っていましたよ」
 依然言葉遣いだけは礼儀正しいが、柔和な顔をしてはいても、彼の目は相変わらず笑ってなどいなかった。
「一体何が目的なの?」
 ユベールは大仰に肩をすくめて見せると、アニエスに近づいてきた。
 二人きりの狭い室内で、アニエスは恐怖を感じ、後ずさる。
「そんなに警戒しないでください。手紙にも書いた通りですよ。セルジュの名誉を守る機会を差し上げようと申し上げているのです」
「あなたに守ってもらうほど、危機に瀕してないと思うけど」
「おや、ではどうしてここにいらっしゃったんですか?」
「……あなただって、何の勝算もなく、わたしを呼び出したりしない。きっと何かあると思ったからよ」
 もしアニエスがユベールの呼び出しに応じなければ、もっとひどいことがセルジュに待ち受けているという予感もあった。自分が巻き起こした事態に、セルジュに迷惑を掛けず、決着をつけられるものならつけたかった。
「さすが聡明でいらっしゃる。それは正しい判断ですよ」
「それで、わたしをどうしようというの?」
「アニエス嬢はセルジュの名誉を守るため、彼に叙勲を辞退してもらってください」
「なっ……!」
「こちらは友の名誉を守るため、親切で言っているのですよ。そうでなければ、彼は他人の考えを剽窃した悪達者として、一生後ろ指を指され続けなければならなくなるでしょう」
「どういうこと? セルジュは自力でドゥグルターニュの難問を解いたのよ!」
「いいえ、そんなはずはありません。爵位を得るというので調べてみれば、ドゥグルターニュの十三の問題を全て解き明かしたというではありませんか。私の叙勲を羨んだ彼が解いたにしてはおかしい。三月程度で解けるはずがないんです。セルジュは私が途中まで考えていた数式を盗んだのですから! そうでなくては有り得ない!」
 アニエスはその瞬間悟った。ユベールはそう信じなければ、自分が今まで築いてきたもの全てを守れないのだと。
「ですが、セルジュの気持ちもわかります。私に先を越され、顔には出さないまでも悔しかったのでしょう。私だって鬼ではありません。考えを盗んだ行為は許し難いことではありますが、彼を追い詰めたのは私なのかもしれません。……ですから、セルジュが叙勲を辞退すれば、考えを盗まれたことについては公表しないでおきますよ。どうです? あなたにセルジュが説得できますか?」

 

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