第四話 蜜月は約束の向こうに


 ベルリオーズ家では、デュクロがいらいらとした様子で、たった今着いたばかりの手紙をもてあそんでいた。
「少し調子に乗りすぎなのではないかね。私は長期滞在まで許可した覚えはない」
「あら、いいじゃありませんか。セルジュさんの努力を思えば、それぐらいのご褒美許して差し上げるべきではないですか」
 ルイーズは先程見せてもらった手紙の内容を思い返した。王都から届けられた手紙には、セルジュの字でこう書いてあった。
 観光したいところがたくさんあるので、しばらく王都に滞在します。叙勲を受ける日取りまで、友人の家に滞在させてもらえることになったので、そちらには戻りません──。
「どうせまた行くのでしたら、同じと言えば同じです」
「もとはと言えば、君が先に帰ったりするからだ、ルイーズ。お目付役がいなくなった途端、羽目を外したのだぞ! きちんと監視してもらわなければ困る」
「まあ、わたしは監視などはじめからしていません。お二人なら何も心配いりませんよ」
「嫁入り前の娘を男一人に任せることほど危険なことがあるか! 何かあったらどうするんだ!」
「何かって……もういいじゃありませんか。どうせ将来を約束した仲なんですから」
「まだ私は認めておらんぞ!!」
 憤懣やるかたない怒りを露わにした屋敷の主人に、何を言っても無駄だと、ルイーズはため息で応えるしかなかった。

「セルジュ、本当にごめんなさい……」
「どうしてアニエス様が謝るのですか?」
「だって……!!」
 アニエスがユベールのもとへ連れられた日から、既に二週間が経過していた。その間にあったことを思い出すたび、アニエスは悔しさで胸がいっぱいになる。
 ユベールはまずアニエスにセルジュ宛の手紙を書かせた。自らの罪を認め、叙勲を諦めるように──と。そんなこと書きたくなどなかった。けれど、言うとおりに書かなければセルジュにも会わせないと言われ、しぶしぶペンを取ったのだ。ユベールのやり口は巧妙だった。きっとセルジュも同じように脅されていたのだ。叙勲取り消しの文書を書くまでは、アニエスの無事を保証しない──と。
 だからアニエスは自分の愚かさを呪った。何よりもユベールの前で失言してしまった自分が全ての元凶であるのだと。
「わたしが、あの人の前で、余計なことを言ったから……」
 文書を手に入れたユベールは勝ち誇ったようにセルジュを見ていた。今頃、セルジュの書いた文書は国王のもとへ届けられ、彼の願いは果たされたことだろう。そうして、ようやくアニエスはセルジュと再会することが出来た。ただ、今の生活はユベールの監視下で軟禁されているようなものだ。デュクロが心配しないようにと、不在を証明する手紙まで書かせる周到さだった。
「もう過ぎたことですよ。それに、私が前もってアニエス様に言っておけば良かったのです」
 セルジュは絶対にアニエスを責めようとしない。そのことがアニエスは逆に苦しい。セルジュのためを思ってしても、セルジュがアニエスにしてくれるように、上手くいかない。
「わたしのせいで、セルジュが悪者になったみたいで悔しい。セルジュは全部自分で解いたのに。ずるなんてしてないのに……」
 外側から鍵を掛けられた部屋には二人きりで、監視などつけられていないということがせめてもの救いだった。
 セルジュは再会してから一度も笑うことのないアニエスを慰めるように胸に抱き寄せた。
「いいんです。初めから誰かに誉められたくてしたことではありませんから。それに爵位が欲しかったわけでもありません。……ただ、あなたと結婚するために必要だから、手に入れようと思っただけです。あなたに信じてもらえれば、誰に疑われようと構いません」
 相変わらず何の欲もなく、ただアニエスのためだけにどこまでも優しい。その気持ちに応えたいのに、自分はあまりにも無力だった。
「……ただ、困るとすれば、爵位を得られなかったことですね。デュクロ様は規律に厳しい方です。約束が果たせないのなら──」
「いや! セルジュ以外の人と結婚するなんて絶対嫌よ!」
「私だって同じですよ。ただ……一度叙勲を辞退すれば、再びいただけることはないでしょう。おそらく……もう二度と爵位を得る機会はないということです」
「……そんな……」
 顔色を失ったアニエスを慰めるように、セルジュは優しすぎる口調で耳元に囁いた。
「もし……どうしてもデュクロ様が認めてくださらないと言うのなら……今度こそ本当に駆け落ちしましょうか。あなただって、一度くらいしてみたかったのでしょう?」
 こんな時に冗談めかして囁いてアニエスの心を少しでも軽くしようとしてくれる。
「……そうね、一度くらいしてみてもいいかも……」
 ようやくアニエスがその顔に僅かばかりの微笑を浮かべると、セルジュは切なそうな瞳でアニエスを見つめた。その瞳の奥に、微かな諦めの色を見たような気がして、アニエスは不安になる。
「セル……」
 名を呼びかけた唇が塞がれる。セルジュの唇が初めてアニエスのそれに触れた。セルジュの熱が抑えきれない想いと共にアニエスに注がれる。いつものように優しいだけでない口づけに、頭の中が掻き乱される。それでも、すぐにやめてほしくなくて、セルジュの首に腕を回す。
 何度も交わされた甘い口づけに酔ったように、アニエスは夢心地で瞼を開けた。
「あなたを不幸にはさせません」
 セルジュがその言葉をどんなつもりで言ったのか、その時のアニエスはわからなかった。

「結局、アニエスは帰ってこなかったんだね」
 叙勲の式典に出席するため、王都に旅立ったデュクロを乗せた馬車を見送りながら、ジョエルはぽつりと呟いた。
「なあに? 寂しいの?」
 隣に立つルイーズは、息子にそんな言葉を投げかけた。
「別にそういうわけじゃないけど……僕だって一度くらい王都に行ってみたかったんだ。帰ってきたら話とか聞きたかったのに。無断で帰ってこないなんてひどいよ」
「無断じゃないわよ。きちんと手紙が来ていたわ」
「手紙? セルジュさんから!?」
 急に色めき立つジョエルを見て、ルイーズは不思議そうに首を傾げた。
「ええ……それがどうかしたの?」
「もう、それを早く言ってよ! 僕、セルジュさんに頼まれごとされてたんだから。その手紙、見せてくれる?」
「確か旦那様の部屋に……でも、あなた字なんて読めないでしょう」
「読めなくても確認したいことがあるの」
 ルイーズから件の手紙を渡されたジョエルは、いつも本日のおやつを当てる素晴らしい嗅覚を発揮させた。
「アニエスが好きなジャムの匂い」
「あら、確かにオレンジの香りがするわね。便箋に匂いを焚きしめるなんて、セルジュさんも意外と洒落た真似をするのね」
 ルイーズも便箋に顔を近づけた。弱々しくもほのかな香りがそこから漂ってくる。
「そうじゃなくて! 僕言われてたんだ。もし手紙から柑橘系の香りがしたら、そこに目に見えない文章を隠してあるから、見て欲しいって」
「目に見えないんじゃ、読めないじゃない……」
「母さん、いいからこっち! フェリクスのところに行くよ!」

「一体いつまでここに閉じこめておくつもり?」
 久しぶりに顔を見せたユベールに向かい、アニエスは不満の声を上げた。
 数週間過ごす内にわかったことは、アニエスとセルジュが閉じこめられているこの場所は、ユベールが借り切っている小さな屋敷だということ。そして、アニエスとセルジュはあくまで歓待されている風を装っているため、屋敷の外にこそ出られなかったが、食事など一通りのことについては、手厚い待遇を受けていた。
「随分長い間で、さすがに退屈しましたか? けれど、ご安心ください。今日でおしまいですよ」
「じゃあ、帰れるの?」
 あまりにも拍子抜けしてアニエスは問い返した。
「ええ、帰れますよ。本日の式典が無事終わったのなら」
「式典って、セルジュの叙勲の式典? だって、もう辞退したのだからそんなのしないはずじゃ……」
「セルジュが書いた辞退の文書はまだここにありますよ。私が今から届けてきます」
「なっ! どうしてわざわざそんな真似するの? セルジュの叙勲がなくなれば、それでいいんでしょう?」
「勘違いされては困りますね。あなたたちは私の恩情により、罪を秘匿されているということをどうかお忘れなく。式典にはあなたのお父様もいらっしゃるそうですよ。楽しみですね。一体あの方がどんな顔をなさるのか……あなたたちは、そこでおとなしく待っていてください。土産話ならあとからいくらでもして差し上げますから」
 ユベールは上機嫌でその場を去り、外から頑丈に鍵の掛けられた部屋には、怒りのやり場のないアニエスとセルジュが残った。
「ここを出たら、本当のことを知らしめるんだから!」
「……言ってもあまり効果はありませんよ。私が自分の意志で辞意を表明した……そのことには変わりありませんから」
「でも……!」
「……ユベールはああ言っていましたが、おそらく国王やデュクロ様の前で、私が彼の考えを盗んだという話にもっていくはずです。わざわざ事前に提出しなかったのはそのためでしょう。そして、もしそうであるのなら……まだ可能性はあります。叙勲は得られなくても、私の潔白だけは証明することが出来るかもしれません」
「でも、どうやって? 申し開きをするにも、ここを抜け出さないことには……」
「抜け出しはしません。ただ、ここでじっと待つだけです」
「え?」
「やるべきことはやりました。あとは──真実が明らかになるのを待つのみです」

 叙勲式典は、王宮で執り行われることが慣例になっている。
 デュクロが王宮に着いた時、馬車にベルリオーズ家の紋章を認めた門番は待ちわびたように迎え入れてくれた。しかし降り立ったのがデュクロのみだと知ると、困惑したように口を開いた。
「勲章を授与される方は、ご一緒ではないのですか?」
「セルジュなら先に着いているのではないかね」
「いえ、ベルリオーズ家の方と一緒に来られると、そう伺っていましたので……」
「予定が変わったのだ。王都にいるらしいので、式典までには現れるだろう」
 式典までに余裕をもって到着したデュクロは、何の疑いもなくそう断言した。しかし、式典が始まる予定時刻が近づいても、現れる様子がないことをさすがに不審に思う。
 既に王族を初め、近衛兵や学識者も準備を終えているというのに、叙勲される当人だけがその場にいなかった。
「セルジュは、きちんと今日の日取りをわかっているのかね」
「案内状はベルリオーズ家に送るようにと仰せつかっていましたが……ご覧になられていないのですか?」
「彼は屋敷には戻っていないが……しかし手紙では日取りがわかっているようだったが……」
 デュクロと式典の執行人がそんなことを言い合っている中、朗々とした声が広間に響き渡った。
「セルジュは来ません。私は彼からの文書を言付かってきました」
 皆の視線が一つに注がれる。広間の入り口から入ってきたのは、先日王から叙勲を受けたばかりの青年──ユベールだった。
「どういうことかね」
 玉座に座っているアルフォンス王が、訝しげに問うた。ユベールは敬礼すると、恭しく手にした書面を差し出した。
「彼から国王様へ──叙勲辞退の申し出です」
 ざわり、と広間が揺れた。誰しもが予想し得ない事態だった。
「なぜセルジュが辞退など……そんなことは有り得ない」
 デュクロの呟きにもユベールは応えない。代わりに王が手紙を検分し──納得したように一つ頷いた。
「どういう事情かはわからぬが、確かに直筆の辞退の申し出ではある。ここに姿を現していないことが彼の答なのだろう。辞退は正式に受理しよう」
「待ってください!」
 デュクロは自分でも気付かない内に声を上げていた。
「なぜセルジュが辞退したのか、その理由を伺いたいのだが」
 問われたユベールは静かに首を横に振った。
「彼と私の友情に誓って……そして彼の名誉のためにもどうか訊かないでください」
「しかしどう考えてもおかしい。セルジュはドゥグルターニュの難問を解くために、持てる全てを費やしてどれほどの労力をつぎこんだのか、私は知っている。そんな彼がやすやすと辞退するなど……考えられない」
「持てる全てを費やして……それが正当なものであれば良かったのですが……逆に言えば彼は魅入られてしまっていたのです。ドゥグルターニュを解くために、どんなことも厭わないほどに」
「どういう意味だね」
 デュクロは厳しい瞳でユベールを射抜いた。しかし彼は国王に視線を注ぐ。
「ああ、真実を語ることをお許しください。ただ、彼を責めないで欲しいのです。彼は既に反省しており、叙勲の辞退を申し出ています。私も彼を許しているのです。もう何も問題はないはずです」
 広間がしんと静まりかえる。皆がユベールの言葉の続きを待っていた。
「セルジュ・フランセルは、私が先日国王様から勲章を賜ったことを羨み、自身もドゥグルターニュの難問を解くことを思いつきました。しかし、思いが強すぎたあまり、私が途中まで解きかけていた問題の証明過程を盗んだのです。ちょうど私の屋敷で祝賀会を開催した折りです。彼はパーティー中姿を消していました。おそらく……その時に盗んだのでしょう。皆様も不思議に思ったのではないですか? いくらなんでも、今まで解けなかった難問全てが三月で解き明かされるなど早すぎる、と」
「……確かに」
「いくら彼がエルランジェ一だとしても出来すぎた話だ」
「天才的な彼なら、基となる考えがあれば、なんとかなったのかもしれない」
 居並ぶ学識者や難問の証明を確認した王立研究所の学者達は口々に囁く。
 デュクロも一瞬その言葉を信じかけた。確かに早すぎるとは思ったのだ。しかしその思いはすぐに霧散した。デュクロがセルジュに難問の証明を持ちかけたのは、ユベールの屋敷から帰ってきてからだ。大体、こと学問のことに関すれば、彼が人の考えを盗むようなことをするとは到底思えない。
「そんなわけはない!」
 ざわめきはぴたりと止まり、皆が発言者であるデュクロに視線を注ぐ。
「我が家の家庭教師を愚弄するのもそこまでにしていだこうか。彼がそんなことをするような人間でないと何より知っているのは、三年間彼を見てきた私だ」
「……王国一の家庭教師だという誉れがあっただけに、認めたくないお気持ちはわかります。しかし責められるべきは彼を雇ったベルリオーズ家ではなく、彼自身の心の弱さです。けれども、彼は心から反省し、私に辞退を申し出ました。そしてこの証明を解いたのは、私の力あってこそと認めたのです」
 しかしデュクロは全く意に介しなかった。まっすぐにユベールを見つめ返す。
「では、セルジュが君の考えを盗んだという証拠はあるのかね。それとも、セルジュが一人で解き明かしたという証拠があればいいのか」
「お言葉ですが、彼が自白していることが何よりの証拠ではありませんか。記憶力の良い彼ならば、私の部屋に忍び込み、証明途中の問題を見れば、証拠を残さず記憶できます。それに……三月で解き明かすなど、現実的に考えて不可能なのです。それが何よりの証拠だとは思いませんか?」
「しかしこの場にセルジュはいない。君に脅されてそう言わされたとも考えられなくないではないか」
「ベルリオーズ候! それ以上おっしゃるようなら、いくらあなたでも、名誉毀損の罪は免れませんよ!」
 両者は一歩も引かなかった。しばし睨み合いが続いた後、デュクロは静かに口を開いた。
「では、こうしよう。セルジュが君の考えを流用したというなら、着想の起点は同じはずだ。君の考えとセルジュの証明を照らし合わせてみればどうかね」
「確かに、それならはっきりするやもしれませんな」
 居並ぶ学者達はお互い顔を見合わせて頷いた。しかしユベールは黙っている。デュクロはなおも言い募った。
「どうだね。これではっきりするのではないか。それとも……初めからそんなもの、考えてなどいなかったのかな?」
「……私がセルジュほど記憶力が良くないことは認めましょう。ですから、頭の中に全てが入っているわけではありません。しかし屋敷に戻れば、そのことをすぐに証明できましょう」
「……屋敷に帰っている間に、セルジュの証明と同じものを用意する──時間稼ぎのように感じるのは私の思い過ごしかな」
「あなたは自分の名誉を守るために、私をお疑いになるのですか! たかが平民の家庭教師くらい、罪を犯したなら解雇すれば済むことでしょう? どうしてそこまでして肩を持つのです!」
「彼は我が娘の婚約者になる男だ。不名誉な醜聞を押しつけられては娘が迷惑だ」
「なっ……」
 デュクロがアニエスとセルジュの仲に反対していたことを聞き及んでいたユベールは、思わぬ反撃に面食らった。そして、時を同じくして広間の入り口から騒々しい音が聞こえてきた。
「旦那様!!」
 警備の者達を押しのけるように現れたのは、ベルリオーズ家の使用人──ルイーズとフェリクスとジョエルだった。
 ジョエルは小さな身体をいかしてするりと警備の手を抜けると、デュクロの前に紙束を差し出した。
「これ、セルジュさんの」
 ジョエルが大切そうに抱えていたずっしりとした紙束を受け取ると、デュクロはその中身を確認した。そうして居並ぶ学者達にそれを差し出す。
「セルジュが問題を解く過程を綴ったものです。どうぞ、確認してください」
 学者達は集まり、一つずつ確認を始める。その間、ユベールは無言でその様子を見守っていた。
「……結論を言いますと」
 学者達はそれぞれ頷くと、慎重に言葉を発した。
「おそらく、彼は考えを流用したわけでなく、全て一人で解いたと思われます」
「そんな馬鹿な! 私の考えが今この場にないのなら、私の考えと違うかどうかわからないではないですか!」
「……あなたがどういう考えだったかは存じませんが、彼は様々な角度から幾通りもの方法で考えています。いくつもの中から最良となるものを選んでいる……あなたの言っていることと矛盾するとは思いませんか?」
 ユベールは愕然とした表情のまま固まった。広間に静寂が落ちた。
「ユベールよ、どういうことなのか説明をするのだ」
 国王の冷厳とした声が響き、ユベールは観念したように肩を落とした。

 

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