第四話 蜜月は約束の向こうに


 その日の夕刻、アニエスとセルジュは長い軟禁生活から解放された。しかしそれはユベールの手によるものではなく──デュクロの計らいだった。
 しかし当のデュクロはその場に姿を現さず、手紙を携えた使いの者がやってきた。その手紙を読んだところで、二人はセルジュへの疑いは公式の場で晴らされたことを知った。
「セルジュの言った通りね! これで、胸を張って帰れるわ」
「……そうもいきませんが」
 曖昧に言葉を濁すセルジュに、アニエスは首を傾げて見せた。アニエスはまだ手紙を半分しか読んでいなかった。
「ユベールは厳しく取り締まられるようですが、私の叙勲もありません。そのことについて、デュクロ様が帰ってから話をしようと手紙に書いておられます」
「だから、きっとセルジュの功績を認めて、許してくれるってことよ」
「……いいえ。デュクロ様は何よりアニエス様のことを考えていらっしゃいます。あなたに釣り合うには、せめて爵位を得なくてはいけなかったのです。けれど、それも永遠に潰えました。ですからきっと……」
「そんなことないわ!」
「デュクロ様がこの場に姿を表さないことがその証拠です」
「でも……」
 確かに、せめて顔を見せてくれてもいいのにとは思う。大変だったなと労ってくれてもいいはずなのに。
「最後の機会をくださったのです。私とアニエス様が一緒にいられる最後の……」
「どうしてそんなこと言うの? いつもお父様のいいなりになって! わたしのことが好きなら、攫って逃げてよ!」
「あなたを不幸にはしたくありません。私ではアニエス様に今までのような生活をさせてあげる力はありません。あなたの笑顔を曇らせたくない……」
「セルジュはなんだってわたしのことをわかってくれてると思ってた。でも、一番大事なことはわかってくれないのね……わたしはセルジュといられればいいの。綺麗な服も、美味しい料理もいらない。セルジュと一緒にいられないことが何十倍も不幸よ! どうしてわかってくれないの!?」
 必至に縋りつくアニエスにも、セルジュはただ哀しそうな顔を深めただけだった。
「あなたのご両親に誓って、あなたを不幸にすることは出来ません。あなたは幸せになるべきです。あなたを幸せに出来る人はきっと他にもいます。ただ、今まで外の世界を知らなかっただけで……でも、今は違います。だから、どうか……泣かないでください」
 セルジュはひどく落ち着いた声音で、そう囁いた。

 屋敷へ向かう馬車の中で二人は口を利かなかった。アニエスがおとなしく馬車に乗ったのは、これもきっとセルジュが自分に何かを伝えるための演技なのではないかと思ったからだ。
 けれど、何も起こらないまま──やがて、馬車はデュクロの待つベルリオーズ家へと辿り着いた。
 久しぶりの帰還にもアニエスの心は全く躍らなかった。それでも、セルジュと一緒に父の待つ部屋へと向かう。
「無事戻ったか」
 デュクロは一つ安堵の息を吐き出したものの、常のように娘に甘いだけの父親の顔をしていなかった。みしり、と胸が悲鳴を上げる。セルジュの予感は正しかったのだと今になって知った。
「せっかくの功績だったというのに、勲章を得られなかったは……残念だったね」
「いえ、せっかくの機会をいただいたというのに申し訳ありません。お約束はお約束ですから──心得ております」
 覚悟を決めたセルジュの言葉にアニエスは思わず叫んでいた。
「お父様! それはセルジュのせいじゃないわ! あの人が妨害しなければ……」
「アニエスは少し黙っていてくれないか」
 父の低い声がアニエスを制する。今までこんな風に声を掛けられたことなどなかった。いくらアニエスが願ったところで父の決意は変わらないということなのか。
「早速だが、君からアニエスの家庭教師の任を解こう。長い間ご苦労だったね」
「お父様!?」
「承知致しました」
「セルジュもあっさり了承しないでよ!」
「これ以上そばにいても辛くなるだけです。せめてアニエス様の未来の障害にはなりたくありません」
 結婚が許されなくても、このままずっと一緒にいられると思っていたアニエスは、あまりの展開に思考が追いつかなかった。セルジュがいなくなる──永遠に?
「長い間お世話になりました。デュクロ様には本当にいくらお礼を言っても言い足りないくらいですが……本当に感謝しております。明日には荷物をまとめて出て行きますので、もう少しだけお時間をいただけると──」
「誰が出て行けと言ったのかね」
「いえ、ですから……」
 デュクロの言葉に、さすがのセルジュもぽかんという顔になる。デュクロはそれが痛快だったのか、厳しかった表情に僅かに笑みを浮かべた。
「君はアニエスの家庭教師ではなく、婚約者になるのだろう?」
 アニエスはその言葉を理解するのに、かなり時間を要した。けれど、父の表情からもその事実を噛みしめると、父に縋りついた。
「お父様素敵!!」
 喜ぶアニエスとは対照的にセルジュはどうしていいのかわからないという困惑しきった表情を浮かべていた。彼の明晰な頭脳を持ってしても、現状は予想し得なかったということなのだろう。
「はは、君が心底驚くとそういう顔になるのか。全く、君が私に泣きついてくれば、こちらもアニエスの気持ちを汲んで許してやろうと思っていたのに……。本当にドゥグルターニュの難問を解いてしまうから、予定が変わってしまったじゃないか」
「……どういうことですか?」
 セルジュは喜ぶどころか、不満そうにデュクロに質す。自分の理解が及ばないことに関しては突き詰めなければ気が済まないようだった。
「私は確かに君ならドゥグルターニュの難問をいくつかは解けるのではないかと思ったのは事実だ。だが、それにしても長い期間を要すると思った。その間にアニエスの気持ちが冷めるならそれまで。また、君の気持ちがあっても、長期間かかるなら、無理だったと私に泣きついてくるなら許してやろうと思っていた。……それなのに、君は短期間で全部解いてしまった……全く、君は本当にかわいげのない男だ」
「そんなものを求めていたのですか。だったら規約にそう書いてください」
「そういうところが、だ。まあ、君はそれでも真面目な人間だからね。私が残した手紙を読んだ君たちが駆け落ちでもしようものなら、未来を見る目のなさに、見つけ出してお説教でもしてやろうかと思っていたが……戻ってきてくれて何よりだよ」
「お約束はお守りします」
 セルジュのきっぱりとした言葉に満足そうに頷くと、デュクロは自分の腕に縋りついているままのアニエスを見た。
「重要なのは爵位を得ることじゃない。アニエスが彼を誇りに思うのなら、それはきっと身分などより強い盾となって彼を守るだろう」
「わたし、セルジュに教えてもらってばっかりだったもの。わたしにしか出来ないことがあるならしてあげたい! セルジュとずっと一緒にいたいもの」
 デュクロは優しい眼差しで娘の頭を撫でてやる。雛鳥もそろそろ巣立つ時期なのかもしれない。
「まあ、式の日取りなどはおいおい考えていくことにするとして……一つだけ言っておきたいことがある」
 軽く咳払いをすると、神妙な顔でデュクロは告げた。
「婚約者であることは認めよう。もう指一本触れるなとは言わんが……私の前で、必要以上にいちゃいちゃしないように!」



──大好きなお父様へ

 セルジュとの婚約を認めてくれてありがとう。我が儘なわたしは今までお父様の想いを知らず、たくさん迷惑を掛けたり傷つけたことだと思います。でも、いつだってお父様はわたしのことを一番大切に思ってくれているのね。お母様もきっと空の向こうでわたしのことを見守っているのだと最近よく感じます。本当に素敵な両親に恵まれてわたしは幸せ者です。
 そこでわたしは気付いたの。セルジュにも素敵な家庭を味わって欲しいって。お父様は結婚を許してはくれたけど、やっぱりセルジュに対する態度がまだ冷たいと思うの。セルジュは実のお父様を知らないのよ。そんな彼にもっと素敵な父親像を見せてあげて。お父様にびっくりさせられたから、今度はこちらがびっくりさせようと手紙だけ置いていくことをどうか許してね。
 わたし、やっぱり駆け落ちに憧れていたの。だから、駆け落ち風婚前旅行に出掛けます。しばらくしたら帰ってくる予定だから安心して。その間に、セルジュに対して優しく出来るよう練習をしておいてね。帰って来ても変わらなければ、口を利いてあげないから。
 それじゃあ、お父様。少しの間行って来ます! ルイーズやみんなにもよろしくね。

──アニエスより



「あんな手紙を残して良かったんですか? 今頃かんかんじゃないですか。私は帰ったら八つ裂きにされるのではないかと不安です」
「あら、大丈夫よ。ああでもしないと反省しないもの。セルジュだって、なんだか以前より居心地悪かったでしょう?」
「まあ……」
 北へ向かう馬車の中にアニエスとセルジュはいた。父があの手紙を読んだ時を想像し、アニエスは悪戯っぽい微笑を浮かべた。
「お父様もわたしたちを驚かせたんだもの。これでおあいこよ」
「それで、どこに向かうんですか?」
 アニエスがこの計画を持ち出した時、セルジュは呆れはしたが、反対はしなかった。目的地は任せて欲しいというアニエスに対し、それならば出発の日取りは任せて欲しいとセルジュは言った。時刻は夕刻。黄昏が迫る風景は夕日に赤く滲んでいた。
「セルジュのお母様のところ! だって、結局セルジュはお母様に会えなかったのでしょう? それでね……考えたんだけど、せっかくだから、もしセルジュのお母様が嫌でなければ……一緒にお屋敷に住んだらどうかなって……」
 アニエスの言葉にセルジュは目を見張った。
「そんなことまで考えてくださっていたのですか」
「セルジュのために出来ることをもっと探したいの。それが空回りしてしまうこともあるかもしれないけれど……でも、これからはもっと本当の気持ちを言ってね。わたしに出来ることならなんだってするわ」
 セルジュは隣に座るアニエスを抱き寄せた。震える声とともに漏れる吐息は熱く、アニエスの耳朶をくすぐる。
「もう、充分ですよ。あなたがいてくれるだけで……」
「うん……大好きよ、セルジュ」
 胸に頬を押し当て、鼓動を確かめる。もっともっと知りたい。彼の気持ちを、想いの全てを。
「……ねえ、キスして欲しいの」
 ユベールに囚われていた時に見せてくれたセルジュの情熱が忘れられない。屋敷に戻ってからというもの、晴れて婚約者になったというのに、セルジュはアニエスが期待するようには触れてくれないのだ。
「馬車の中は揺れるから危ないですよ」
 せっかくいい雰囲気になったと思ったのに、返ってきたのは冷静な言葉だった。
「もう、そうやってまたはぐらかす! どうしてキスしてくれないの? あの時はしてくれたのに……わたし、すごく嬉しかったのに……」
 アニエスの瞳が潤み、切実な思いを持った視線がセルジュに向けられる。セルジュは気まずそうに目を逸らすと、彼らしくなくぼそぼそと呟いた。
「あの時は、すみません……もうこれで終わりかもしれないと思うと、つい理性をどこかに見失ってしまいました……」
「どうして謝るのよ! わたしは、嬉しかったのに……」
「自分の中で決めていたんです。あなたとの婚約を認めさせるまでは、我慢しようと。それなのにそれを破ってしまって……なので、またしばらく我慢しようかと」
 アニエスは呆れた。けれど、今ではそんな真面目すぎるところも彼の個性だと愛おしく思えてくる。もう自分を小さな場所に押し込めなくてもいいのだと背中を押すのが、きっとアニエスの役目なのだ。
「もう、どうしてセルジュはそんなに規則が好きなのよ! 規則は破るためにあるのよ!」
「その発言には同意しかねますが」
「とにかく、そんな決めごとは無効! 破ったところで、誰も不幸にならないわ。ううん、それどころか、セルジュがキスしてくれないなら、わたしが不幸になる」
「乱暴な証明過程ですね……でも、納得はしました」
 そう言って、真剣な表情でこちらを見つめてくるので、アニエスはどきりとした。少しは成長したと自分でも思うのに、我が儘なところは変わっていないと呆れられていないだろうか。でも、どれだけセルジュを想っているか最大限に言葉にしなくては、伝わるものも伝わらない。もう、後悔はしたくないのだ。
「少し外に出ませんか? 見せたいものがあるんです」
 セルジュは一度窓の外を確認すると、そう問いかけた。アニエスは頷くと、停車した馬車からセルジュの手を借りて地面に降り立った。
「初めてセルジュに触れたのは、あの駆け落ちの予行演習の夜、馬車に乗るときだった。わたし、本当に嬉しかったのよ」
「屋敷の中にいては、叶わないことでしたから」
 セルジュも同じ気持ちだったのだろうか。あの時、澄ました風に見えても、アニエスと同じように、胸をときめかせたりしたのだろうか。繋いだままでいた手に力を込める。セルジュの表情を窺おうと、顔を上げたアニエスは、辺りがすっかり暗くなっていることに気づいた。
「今日は満月なのね。ふふ、本当にあの夜のことを思い出すわ。あの日も月の綺麗な夜だった」
 夜空を見上げ、アニエスは微笑む。思えば、アニエスの描いた絵をセルジュが認めてくれた時から、恋は始まっていたのだ。大好きなリシュリューの小説が、そのモチーフとなった青い月が、二人を結びつけてくれたのかもしれない。
「アニエス様」
「ねえ、もう婚約者同士なんだから、そんな呼び方やめて。アニエスって呼んで欲しいわ」
 セルジュは難題を押しつけられたような顔をした。
「呼び慣れていないので、なんだか自分の中でしっくりきません」
「今はしっくりこなくても、呼んで欲しいの。難しいことじゃないわ。それとも、規則として決めた方がいい?」
 さすがにそれはどうかと思ったのか、セルジュは覚悟を決めたように愛しい名を呼ばわる。
「アニエス」
 たったそれだけのことで、心臓が喜びで震える。何度でも何度でも名前を呼んで欲しい。
「なあに、セルジュ?」
 晴れやかなアニエスの表情を見て、微笑んだセルジュは、夜空に浮かぶ月を指差した。アニエスもそちらに視線を移す。
「月の話は、天文の授業の際にしたと思います。月の満ち欠けは29日から30日の周期で繰り返されます。昔はまた違いましたが、現在の暦では、ひと月は30日から31日あります。稀に、月の初めと終わりに満月が二度巡ってくるのです」
「そうね、計算すれば確かにそうなるわ」
「満月が二度巡ってくる月の二度目の月を『青い月』と呼ぶのだそうです。今宵がその『青い月』です」
「青い月……」
 アニエスはため息のように呟いた。セルジュの想いを初めて知った日も、彼は青い月を見せてくれた。大好きな物語になぞらえて。今度の月は青くはないが、確かに『青い月』なのだ。
「いつ出現するかわからない、あまりに珍しいことから、『青い月』は、極めて稀なものの例えともなっています。ですが……こうして二人で見ることが出来たのです。あなたとの婚姻も、決してありえない奇跡などではなかった……妖精の姫君と人間の青年が結ばれたように。青い月が存在する限り、不可能ではないと、私は信じられたのです」
 この駆け落ち風婚前旅行を計画したとき、だからセルジュは出立の日を決めさせて欲しいと言ったのだ。そして、その日は遠からずやってきた。この偶然は、きっと二人を祝福するものに違いない。
「きっとこれから、青い月は稀なものの例えじゃなくて、永遠の愛を約束する象徴になるわ。わたしたちがそれを証明してみせるのよ」
 幸せそうに微笑むアニエスの頬を、セルジュの指先が愛おしむように撫でる。アニエスがそっと瞳を閉じると、今度ばかりはじらされることなく、優しく唇を重ねられた。
「セルジュ、なんとか青い月と永遠の愛の関係性を学会で発表できないかしら」
「……もともと関連性がないものを結びつけるのは難しいかと……いや、統計を取ればあるいは……」
「そんなまどろっこしいことするより、物語を書けばいいのかしら。わたし、リシュリューのような小説を書いてみようかしら」
「何事にも不可能はないようですから」
 セルジュがそばで微笑んでくれる、そんな日常さえあればきっと何があっても乗り越えられる。ようやくアニエスの世界は広がったのだから。可能性はいくらでも目の前にあると気づけたのだから。
「ねえ、セルジュ」
「はい」
「もう一度キスして」
 返事の代わりに、セルジュは先ほどより長い口づけで応える。
 アニエスの腕がセルジュの首に回される。薬指にはめられた指輪を彩る青い月が、月光を反射して美しく輝いていた。


(完)

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