人喰い竜と生け贄の乙女

 

『あの方には言わないで……』
 自分が生け贄として竜に要求されていると知ったリネアは一言も泣き言を漏らさなかった。ただ弱々しく、その言葉を唇に乗せた。
「リネア……」
 わたしは何と言っていいのかわからず、ただぎゅっと彼女の手を握りしめた。
『会えば別れが辛くなるもの。だから、いいの』
 この街に住んでいる者なら、今朝の竜の声が生け贄を要求してのことだとすぐにわかるだろう。そして誰が生け贄であるかなど、すぐ調べがつく。ヴィルヘルムさんが知るのも時間の問題だ。
 そもそも竜が要求する生け贄は若い娘と決まっているのだそうだ。それも美しい娘であるという。必然的に〈花蝶の舞〉で働く少女が選ばれる確率が高いのだ。
『どうせ、もう会えなくなる運命だったのよ。それが少し早かっただけ』
 わたしは胸の奥からせり上げてくる罪悪感に押し潰されそうになった。
 違う。全てはわたしのせいなのだ。あんなにもしつこく祠に出向いて願いを叶えてくれと言ったから、竜はお怒りになったのだ。願いを叶えるはずの竜がリネアを生け贄に要求するなんて、わたしは少しも考えが及ばなかった。だって、リネアを生け贄にするくらいなら、わたしを生け贄にすればいいのに。わたしは、何だってすると竜に約束した。それなのに――!
「こんなのってないわ……」
 わたしの声は震えていたが、その時、既に決心は固まっていた。
「リネアが生け贄になるなんておかしいもの」
 潤んだ黒い瞳を瞬かせ、リネアは小首を傾げる。わたしは勇気づけるように頷いた。
「わたしがアレニウス様に言ってくるわ。こんなのおかしいって。今まで願いを叶えてくださったんだもの、きっとわかってくれるはずよ!」
 わたしは力強くリネアの手を握って宣言した。
「わたしがリネアの身代わりになるわ」

〈花蝶の舞〉は、今日も昼から店を訪れた客達で大賑わいだった。客の中には、今朝の竜の声が生け贄を要求してのものだと理解し、不安そうに訊ねてくる者もいた。けれど、まだ事は公にされていない。
 店の奥で、わたしとリネア、街の役人、〈花蝶の舞〉の従業員の何人かが集まっていた。ただ、そこに支配人モルテンの姿はなかった。
「だから、わたしがリネアの代わりに祠へ行きます。それではいけないんですか?」
 先程から何度もこう言っているのに、役人の男性はいい顔をしなかった。
「いけなくはないよ。でも、あまり意味はないと思う。君がリネアでないとわかれば、竜はもう一度彼女を生け贄に要求するに違いない」
「でも、人間の願いを叶えてくれる竜なんでしょう? 話せばわかってくれるんじゃないんですか」
 役人だけでなく、その場に居合わせた全員が何かを恐れるように苦い顔をして、ただ押し黙っていた。誰も言葉を発しないので、役人の男性が仕方なくといった様子で口を開いた。
「君と同じことを言って二年前に帰ってこなかった人間がいるんだ。賢竜なら話せばわかるのではないか……と。だが、彼は帰ってこなかった」
「彼?」
 思いもよらなかった言葉に、わたしは無意識に訊ね返していた。
「ああ、彼は男だった。この街に立ち寄った旅人でね。彼は人の願いを叶える竜に興味を持っていたが、生け贄を要求しているという事実にひどく立腹していた。彼は君と同じように、竜を説得するために生け贄の身代わりになると言って祠に行った。しかし、竜は男をやったことに立腹したのか、結局もとの生け贄の少女をやるように再度の通知が来て……彼は全くの無駄死にだったというわけだ」
 ぞくり、と肌が粟だった。人語を解し、人々の願いを叶えるという賢しき竜が、やはり本来の性質である獰猛さを併せ持っている事実がどうしようもなく現実として感じられた。
「で、でも、それは男の人だったからでしょう? わたしがリネアかどうかなんて、竜にはわからないはずだもの」
「それはどうかな。そもそも、以前は特に指名なんてなかった。けれど、ある時を境に竜は生け贄を名指しするようになった。少なからずそこには何かしら考えがあるのだろう。だから、君がリネアじゃないと、きっと竜はわかるんじゃないか」
 うっと言葉に詰まり、黙ったままのわたしの手をそっと温かい手が包んだ。リネアだ。
 彼女は首を何度も横に振った。もういいのだと、そう言っていることは明らかだった。
「君が無駄死にする必要はないんだよ」
 確かに、わたしが何の役にも立たなければ意味がない。でも、だからといって、わたしは仕方がないからと、竜のもとに向かうリネアを黙って何もせずに見送れるだろうか?
 そんなことは絶対に出来ない。だって、わたしのせいでリネアは──。
「……はっきり言って無駄死にかもしれません。でも、やってみなければわからない。だから行かせてください!」
 その場がしんと静まりかえる。わたしの決意の深さだけはとりあえず感じてくれたようだった。リネアは堪えきれず泣いてしまった。わたしは彼女の肩を抱き寄せた。
「とりあえずリネアのふりをします。それでだめなら竜を説得します。そのためにもリネアは死んだことにしてください。この街を出ればいい。そうすれば、もしまた竜が彼女を生け贄に要求した時に、いないと断れますから」
「……まあ、支配人には伝えておこう」
 役人の男性はわたしのことが理解できないというように頭を振ったが、これ以上の反対意見は誰からも出なかった。
「リネア、ヴィルヘルムさんと幸せにね」
 彼女にだけ聞こえるように小声で囁くと、リネアは応える代わりに大粒の涙をこぼした。

 事が大きくならないうちにと、わたしの身代わり作戦はその日の内に進められた。
 夜になり、わたしは〈花蝶の舞〉の一室でリネアのドレスを身に纏い、肩までしかない短い髪をそれでも綺麗に飾り付けてもらった。果物屋でお世話になった人々には簡単に挨拶を済ませた。転がり込んだ時が突然なら、別れも突然だった。けれど、誰もわたしを止めたりしない。この街はどこまでも自由なのだ。
 店の廊下を歩いていると、向かいから来た人物と目があった。五十を過ぎてはいるが、ぴんと伸ばした背筋と一分の隙もなく着こなした礼服から彼の性格が窺える。お付きの人間が彼に耳打ちした。
「支配人、彼女が身代わりの少女です」
〈花蝶の舞〉の支配人モルテンは、興味なさそうにわたしを横目で見やると、冷厳とした声音で呟いた。
「勝手に死にに行くのは構わんが、竜の怒りを買って余計な被害を増やさぬように」
 すれ違い、わたしは振り返る。けれど、モルテンはわたしの存在などはじめからなかったかのように歩き去っていく。
 別に誉めて欲しいわけじゃない。誰かの感謝が欲しくてしたことじゃない。けれど、大切な従業員であるリネアの代わりに行くわたしに対して言う言葉だろうか。もともと好きではなかったモルテンがますます憎らしくなった。そもそもあの男がリネアの恋を認めてくれれば、こんなことにはならなかったのだ。
 竜の祠に向かうわたしの足は、おかげさまで震えるどころか、怒りのため、どしどしと大地を踏みしめることとなったのだった。

 でこぼことした岩山の道も、もう随分歩き慣れた。月明かりだけの宵闇でも、手にしたわずかな明かりを頼りに、わたしは通い慣れた道を迷いなく歩いた。
 竜に供物を捧げる場所を通り過ぎ、わたしは大きな祠の横手にある地下に続く穴の前に立ちつくした。生け贄となった少女はここから降りて竜の元に参るのだ。
 はじめは緩やかな勾配が、やがて急な角度となり、真っ暗な地下に続いている。降りることはすなわちもう二度と戻って来れないことを意味していた。だから、間違って落ちたりしないように、街の人たちは決してここに近づこうとしない。
 わたしはそろりそろりと洞窟の中に足を踏み入れた。はじめは立って進めるような斜面だが、すぐに地面に手をついて、足下を確かめるように体勢を低くした。そして最後には覚悟を決め、ひんやりとしたでこぼこの岩場を滑り降りていった。
 頼りないカンテラの明かりで足下を照らすと、地下まで降りたってしまえば、平らな道が続いていた。わたしは着慣れないドレスのスカートをたくしあげ、躓かないようにと先を行く。
 この奥に竜がいるのだ。今まで実物など見たことはないが、姿形は絵画で見たことがある。大きさは小山ほどもあり、炎の息を吐くのだ。竜は成長すると群れたりせず、山や森などにひっそりと棲みつく。人間と全く関わりを持たない竜もいれば、アレニウス様のように人と共に生きることを選ぶ竜もいる。
 けれど、賢竜と呼ばれてはいても、人を喰らうのは他の竜と変わりない。ちっぽけな人間は、それでも畏怖と敬意をもって竜を崇め奉るのだ。
 道の先からほのかな光がもれている。明かりだろうか。その先は開けた広い場所へ続いているようだった。
 竜がいるとしたらこの先なのだろう。わたしは覚悟を決めた。
 細い道を通り抜けた途端、目の前に顎門を広げた大きな口が迫っていた。竜の口だ。あまりにも大きいその口は、恐ろしく鋭利な牙を上下に揃え、わたしなど簡単に丸飲み出来そうだった。
 言い訳も何も出来ずに、いきなり食べられるのか!
 わたしは自分の人生のあまりにもあっけなさ過ぎる幕切れにがっかりしながらも、覚悟を決め両目をつぶった。
 ──しかし、いつまで経ってもその牙がわたしを襲うことはなかった。
 恐る恐る目を開けてみたわたしは、竜が先程の位置のまま動いていないことを確認する。そっと横に移動してみる。炎のような赤い鱗で覆われたその身体は、やはり動かない。洞窟内にはところどころに明かりが灯っていた。
 わたしは思い切って竜を真横から観察した。明かりを微かに反射する金色の瞳は大きく見開かれているが、その眼球はこちらを見ようともしていない。
 わたしは気付いた。竜は動かないのではない。動けないのだ。竜は既にその動きを止めていた。
 ――死んでいるようだった。
「どういうこと……?」
 わたしが漏らした声が冷たい洞窟内に静かに響いた。その時だった。
「……君が生け贄の少女?」
 大の大人が十人手を繋いでようやく抱きかかえられそうな竜の体躯の後ろから──突如として美青年が現れたのだった。
 わたしは言葉を返すより先に、まじまじとその人物を観察した。
 年の頃はヴィルヘルムさんと同じくらいだろうか。白金の髪と色白の肌。造作の整った顔といい、こんなところにいなければ、良家の子息で充分通るだろう。ただ、衣服はぼろぼろとまでは言わないが、かなり着古した感があった。紫水晶みたいに澄んだ目が、こちらをじっと見つめている。
「あなたこそ一体誰? ここは竜の祠のはずよ。ここに来るのは生け贄だけ。そうでしょう?」
 わたしが生け贄であることは自明であるはずなのに、なぜ彼がそんな質問をするのかわからない。大体この場に相応しくないのは彼の方だ。
 目の前の青年もわたしの質問には応えず、その代わりじっとわたしを見つめてきた。その瞳の深い色合いに、彼が竜の化身なのではないかという馬鹿げた想像が浮かんだ。
「……アレニウス様は一体どうなってしまったの?」
 再度の問いかけに、彼はようやくゆっくりと口を開いた。
「竜は死んだよ。──僕が殺したんだ」

 竜は何故死んだのか。
 彼は何者なのか。
 わたしの疑問に彼はすらすらと答えてくれた。
 彼の名前はラルス。彼こそが二年前に身代わりとして竜の元に向かったという青年だった。
 だが、死んだと思われていたはずの彼は、竜の元で二年間暮らしていたそうだ。竜は生け贄に男が来たことに立腹したが、男を食べずにこき使うことにした。そんなわけでラルスは今まで生きながらえていたらしい。
 しかし、二年間共に過ごし、相変わらず生け贄を取ることをやめようとしない竜にラルスも怒りを募らせていた。そしてついに竜の殺害に思い至ったのだ。
 洞窟内に生えている植物から毒を抽出し、少しずつ蓄えていた彼は、大陸を勉学のため旅していたという学識ゆたかな青年だった。今朝の竜の合図を聞いた時、竜が生け贄を取り続けることに我慢ならなくなったラルスは、ついに竜殺害を決行したのだった──。
「竜が死んでしまうなんて信じられないけど……でも、事実なのね。願いを叶えてくれる竜だっていうから、生け贄にならずに済んで嬉しいけど、複雑だわ……」
 竜は不死身ではないにしろ、強靱な肉体を持ち、人間などより遙かに長生きする。こんな風に人の手で殺されてしまうなんて思いもしなかった。
 信じていた──のかどうかは竜に訊いてみないとわからないけど──人間に裏切られたと思ったのだろうか。なんとなく、わたしは竜に同情してしまった。
「君は〈花蝶の舞〉の子? 竜はもういないけど、君はここで生け贄になったことにすれば、もう店には戻らなくて済むよ」
 ラルスは突然そんなことを言い出した。わたしは自分がリネアの代わりに来たことを思い出した。
「違うの。わたしは本来生け贄だったはずの子の代わりに来て……とにかくリネアが生け贄になるなんて納得いかないからわたしが身代わりに……。もしばれてしまったその時には説得してみようと思ってここに来たのよ」
 わたしの言葉に、ラルスは驚くどころかどこか納得したように頷いた。
「やっぱり本人じゃなかったんだね……身代わりだなんて、僕以外にそんな馬鹿なことをする人はいないと思っていたけど……」
「ええ、さんざん無駄死にするなって止められたわ。でも……良かった。もう生け贄は必要ないのね。それに、あなたも無事だし。わたしは街に戻るわ。あなたの無事も知らせた方がいいしね。あ、でも……どうやって帰ればいいのかしら。あの傾斜は登れないし……」
 わたしが思案していると、彼は神妙な顔をして何かを考え込んでいた。
「君はこの街から逃げたいとは思わないの?」
 彼の言っている意味が理解できず、わたしは小首を傾げた。
「帰りたいとは思うけど……でも、まずはここから脱出する方法を考えないと……」
 わたしがそう言いかけると、ラルスは不意にわたしの手首を思いがけない力強さで掴んだ。
「な、なに……?」
 綺麗な顔を近づけられ、不必要に胸がどきどきした。
 そんなわたしの様子などおかまいなしに、ラルスは紫水晶のような瞳から今まで見せなかった冷徹さを覗かせた。
「残念だけど、君を帰すわけにはいかないんだ。悪いけど、しばらくここにいてもらうよ」

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