孤塔の姫君

 私の毎日はすっかり楽しいものになった。相変わらず城の人間は私を避けて通るけど、そんなことはどうでもよかった。孤塔に通うのが、姫様に会うのが本当に楽しかったのだ。
「姫様って、刺繍がとってもお上手なんですね!」
 退屈を紛らわせる為にと思って持ってきた刺繍道具一式を使い、ロスヴィータ様は鮮やかな手並みを見せてくれた。
「だってお城ではこんなことぐらいしかやらせてくれないのよ」
「でも、ここまで上手に出来るなんて! 私は苦手だから、本当に羨ましいです……」
「じゃあ、教えてあげるわ」
「本当ですか? ではお言葉に甘えて!」
 すっかり姫様の妹のような気持ちで甘えていても、姫様はそれを受け入れてくれる。本当に幸せなひとときだった。
「このハンカチは、やっぱりエアハルトさんにあげるんですか?」
「あなたにあげてもいいわよ」
「いえ、そんな恐れ多い! エアハルトさんに是非あげてください。喜んでくれますよ」
「そうかしら……」
「そうですよ!」
 エアハルトさんがハンカチを使う時などあるのかもわからないまま、私は二人を応援したい気持ちで一人盛り上がっていた。
 と、そこへノックの音。噂のエアハルトさんが現れた。
「あら、ご苦労様」
 桶いっぱいに水を汲んできたエアハルトさんは、きびきびと会釈をするとそれを部屋に運び入れた。
「アルマ、聞きたいことがあるのでしょう? 良かったら聞いてきたら?」
 姫様は耳元で小さく囁くと片目をつぶった。
「私は少し奥で休むから、二人とも好きにしていてね」
 そう言いおくと、ロスヴィータ様はカーテンで仕切られた奥に消えた。
「エアハルトさんもお茶でも飲みますか?」
 姫君が奥に消えるのを見届けていた彼にそう声をかけると、彼は小さく首を横に振った。
「あ、そうか……それじゃ飲めませんよね。食事はどうやってとってるんですか?」
 素朴な疑問を口にすると、彼は身振りで応える代わりに、机の上のペンを取ると紙に文字を書いてくれた。
 ──もちろん包帯を取るけど、他人に見せるようなものじゃないから。
「私は、気にしませんけど……」
 そう言うと、ありがとうというように優しい目をして頷いてくれた。
「そうだ。私、エアハルトさんに聞きたいことがあるんです」
 彼はすこし首をかしげて見せた。
「ええとですね……」
 今度は私が紙に書いた。
 ──ロスヴィータ様のこと、好きですか?
 姫様に聞かれるとまずいので、紙に書いてみる。
 驚くかと思っていた彼だが、その文字をじっと見つめると、迷いない動きでペンを動かした。
 ──はい。心から深く愛しています。
 逆に私が動揺してしまった。私が出る幕などないような気がした。
 ──姫様もあなたのこと好きだと思うんです。だから、もう誰も愛さないと誓った姫様だけど、私はもう一度幸せになって欲しいんです。エアハルトさんなら大丈夫ですよ。
 彼はじっとそれを見つめると、ただ首を振った。そうしてゆっくりと文字を綴る。
 ──私は今のままで充分だから。他に何も望まない。
「そんな……」
 思わず声が漏れる。だって、自分の気持ちを抑えたままなんて辛すぎる。
 ほとんど泣きそうな顔をした私の頭を、彼はぽんぽんとあやすように撫でてくれた。お兄ちゃんみたいな、お父さんみたいな、そんな仕草で。穏やかさの溢れる鳶色の瞳が優しく私を見下ろしていた。彼は気を遣ってか、扉を指差し、帰るという仕草をした。
「あ、待ってください!」
 私は急いで声をかけた。姫君との仲は私が取り持てなくても、他にどうしても頼みたいことがあったのだ。
「ロスヴィータ様にエアハルトさんが物知りだって聞いたから、知りたいこと手紙に書いてきたんです。また教えてください」
 彼はそれを大切に受け取ると、必ずというように深く頷いて見せた。
 
 数日後、エアハルトさんから質問の返答を受け取るとき、彼は一体それを何に使うのかと不思議そうにしていた。
「以前森で出会ったエミールって子がいるじゃないですか。あの子、最近またふさぎ込んでしまって……だから、元気づけようと思ったんです」
 私の答に満足したのか、彼はまたぽんぽんと頭を優しく叩いてくれた。
 
「それでエミール。首尾は上々かしら?」
 私とエミールは、孤塔近くの森に来ていた。
「うん、言われたとおりにしたよ。だからもうすぐ来るはずだけど……」
「あっ、来たわ」
 私たちはこそこそと茂みに隠れると、向こうからやってくる人物の様子を窺った。いつだったか、私を血まみれアルマと呼んでくれた貴族の一人だ。エミールの人選はなかなか間違っていない。
「まったく、なんで私がこんな気味の悪い場所に来なくてはいけないんだ」
 貴族はブツブツ言いながら、森の中を歩いている。エミールが、孤塔に近づくとよくないことが起こると言ってくれたおかげで、それはお城中に広まった。そんな噂は根も葉もないと突っぱねる人と、いやそのくらいの何かはありそうだと思う人に分かれていた。貴族は信じない派だったのだが、そこをエミールが、それじゃあ確かめてきてくださいと上手く話に乗せたのだ。
「ほら見ろ、何もないじゃないか」
 太陽が彼方に沈み、辺りは漆黒の闇に覆われていた。手にしたカンテラだけを頼りに、貴族は森を奥へと歩いていく。私を見て怯えていたわりに、なかなか度胸がすわっている。
「エミール、用意はいい?」
 彼はこくりと頷いた。
「じゃあ、手はず通りにね」
 茂みをそろりそろりと移動する私たち。かさり、と草のふれあう音が辺りに響く。
「だ、誰かいるのか?」
 貴族はカンテラを音のした方に向け、焦ったよう声をかける。
 かさかさと音を立て、一羽の兎が茂みから飛びだした。
「なんだ、兎か……」
 安心したように呟くとやれやれとまた歩き出す。そのとき、どこからか薄気味悪い声が聞こえた。うめき声のようなそれが確かに森の中に響いている。
 焦ったように辺りを見回した貴族はまた新たなものを目にすることになる。
 彼を取り囲むように現れたのは──無数の鬼火だった。
「ひっ……!」
 声にならない悲鳴を上げ、彼は逃げ場を模索した。またうめき声が聞こえる。だんだん迫ってきている。
「うわああああ!!」
 彼はカンテラを投げ出し、元来た道を一目散に走って逃げていった。
「……やったわね」
「……やったね」
 私たちは同時に声を漏らした。
「大成功!!」
 手と手を打ち合わせ、踊りあう私たち。エアハルトさんが作ってくれた、低い音のする笛──ともすれば人のうめき声に聞こえるそれは、恐怖心がよりその効果を高めてくれたようだった。書庫から借りてきた本に、その笛の作り方と鬼火に見せる炎の作り方が書いてあったのだ。よくわからないところは、エアハルトさんの知識を借りた。
「じゃ、エミール。次は、森は兎にたたられているって感じで噂を流しといてね」
「了解!」
 私たちにもできることがある。そう、信じているのだから。
 
 それから何度か、森にやってきた人を驚かし、噂がまことしやかに囁かれるようになった頃。ついに私たちは大物を釣り上げることに成功した。
 兎のたたりは、森で無惨に殺された兎がいるから──という噂に、良心が痛んだのか、単に好奇心が働いただけなのかはわからないが、兎の尊い命を奪った当本人である王子二人がついに森にやってきた。
「本当にくだらない噂だよ。兎なんかがたたるものか。大体兎などに怯えてどうするんだろうね」
 ラインヴァルト王子は、実につまらなさそうに呟いている。
「しかし何人もの者が目撃しているとなると確かめねばならない」
 アンドレアス王子は感情のこもらない声でそう返した。彼が兎に直接手を下したのかはわからないが、弟王子の非道な行いを見過ごすばかりか、それに手を貸している時点で、私の中では同罪だった。
「もし兎が出てきたら、そいつは八つ裂きにしてやる。たたりなどを恐れるものか」
 ラインヴァルト王子は、平然と恐ろしいことを口にした。私は離れた場所にいるエミールを思った。今ので動揺していなければいいけど。けれどもう後はやるしかない。いつものように、エミールが笛の音でうめき声を奏でる。私は鬼火を出現させる準備を終えた。
 王子の呟きを聞いたせいか、エミールは今日は兎を放つのをやめたようだった。賢明な判断だ。うめき声が辺りを包み、鬼火が闇夜に揺らめく。私は、彼らがぎゃふんという瞬間を心待ちにしていた。
「うわ、本当に鬼火が出た」
 鬼火の大群に囲まれても彼らは平然としていた。そんなはずじゃないのに。
「誰も襲われた者がいない以上、危害を加えることはないのだろう」
 冷静に分析までされている。これはまずい。私はエミールに撤退を合図しようと、私の持つ笛を吹いた。緊急避難の合図であるそれは、やはりうめき声のような音をもらす。
 向かいの茂みがかさりと揺れた。エミールが合図を理解してくれたんだ。しかし王子二人も物音に気付いたようだった。
「噂の兎か? どれ、捕まえてやる」
 ラインヴァルト王子がエミールのいる茂みに向かった。私はどうすることも出来ず、ただエミールが逃げてくれることを祈った。
「やっぱりいたな。ここは兎のねぐらじゃないのか」
 きっとエミールは兎だけでも逃がそうとしたんだろう。けれど、兎はいつものように茂みから来訪者がいる方へ飛びだした。
「よし、しとめるぞ」
 アンドレアス王子はまたしても無機質な声でそう告げると、背負っていた荷物から小型のボウガンを取り出した。
 私は姿勢を低くしたまま、茂みを素早く移動した。王子二人が背中を向けている隙に、エミールがいると思われる茂みまで行く。彼が兎を守るため、飛び出さないよう止めるためだ。あのボウガンで人を射ることを彼らは一寸も躊躇わないだろう。
 なんとか茂みを出たり入ったりを繰り返していた兎だが、一向に遠くに逃げようとしない。何度かボウガンの矢が白い毛皮にかすめた。ようやく発見したエミールを背中から捕まえると、彼は絶望的な声で呟いた。
「僕を探しているんだ……」
 エミールにすっかり懐いている兎は、危険から守ってくれる存在であるエミールを探しているのだった。しかし兎がエミールのところに来れば、私たちも見つかってしまう。
「今は逃げましょう。あの子も一緒に逃げてくれるわよ」
「嫌だ! もし射られたりしたら……」
 小声で囁きあう私たち。意見はまとまらないまま時間ばかりが過ぎ、やがて最悪の事態が訪れた。エミールの兎が私たちのいる茂みに飛び込んできたのだ。
 兎ともどもボウガンの矢に射られる!! そう覚悟し、私はエミールを抱きしめ、目を固く瞑った。身体を襲う鈍痛と、生ぬるい血しぶきが舞う様を体感するはずだった。
 けれど、少し待てどそんな様子はない。そうっと目を開けると、王子二人は私たちのいる場所とは違う方向を睨んでいた。
「誰かが石を投げたな……やっぱり誰かのいたずらじゃないのか」
 憤怒の形相で彼方を見やっているラインヴァルト王子だったが、一瞬後にその表情が別のものに変わる。整った顔立ちが、焦りを含んだ驚愕に変わる。
「兄上、あれは……」
 私たちも彼方を見やった。まだ微かにくすぶっていた鬼火が背後から照らし出す影は、人より遙かに大きい。でっぷりとした身体が毛で覆われているのが、逆光ながら微かに見えた。
「熊だ……」
 その場にいた誰もが思わずそうもらした。私たちが森の番人と呼ぶその動物は、その呼称に違わない存在感を放っていた。
 熊の登場に驚いていた王子達だがすぐにボウガンを熊に向け、狙いを定めた。なんてことをするのだろう!
 熊は一度地に伏せるようにそれをかわすと、敏捷な動きで再び闇に溶け込んだ。
「逃げたぞ! 他愛ないものだ」
 勝ち誇ったように、ラインヴァルト王子がそう叫んだときだった。熊の逃げた暗闇から何かが放り投げられた。油断していた王子は、まともにそれを顔面に食らった。地面に落ちたその物体から、黒い何かが無数に現れた。
「うわ!!」
「逃げろ!!」
 彼らが口々に叫んだのも無理はない。黒い何かの正体は無数の蜂だった。熊が投げつけたものは蜂の巣だったのだ。
 王子達は「ぐわっ」とか「ぎゃっ」とか奇声を上げながらも、城へと、それこそ脱兎のごとく逃げ出した。
「助かった……」
 兎を抱きしめたままエミールは呟いていた。私も安堵と共に脱力した。蜂たちはそのほとんどが巣を壊した王子達を追いかけていってくれていた。
「森が、味方してくれたのね」
「うん。あ、でも熊がいたよ。やっぱり早く逃げよう」
 ほっとしたのも束の間、熊に襲われてはひとたまりもない。私たちがそそくさと立ち去ろうとした時、背後から服を掴まれた。驚いて振り返ると、あるいは熊よりも恐ろしい形相で、私たちを厳しい瞳で見据えているエアハルトさんが立っていたのだった。
 
 私たち二人は、エアハルトさんの部屋にいた。私は既に、エアハルトさんが何を言いたいのか、仕草で判断できるようになっていたので、彼の部屋に行かなければいけないことや、彼が今まで見たこともないくらい怒っていることがわかってしまった。
 ものすごく怒っているはずなのに、彼は私たち二人を部屋に招くとお茶の準備をしてくれた。
「お、お構いなく……」
 恐縮して言う私を無視して、湯気の立つ温かいカップが目の前に用意された。
 エアハルトさんの部屋は整然としていて、無駄なものが一切ないようだった。物珍しそうに見ていたエミールもカップを置かれると、ついに始まるお説教に怯えたように落ち着かなくなった。
 だん、と机の上にたくさんの無地の紙が置かれ、私はこの枚数分説教されるのかとちょっと泣きたい気持ちになった。
 ──なんで怒られているかわかるよね?
 自らの非をまずは認めなくてはいけない。
「……お城にありもしない噂を流して、人々の不安を煽ったあげく、ありもしないことを本当にみせかけていたからです……」
 彼はそれにうんうんと頷いたが、目は厳しいままだった。
 ──それもだけど、アルマは嘘をついた。エミールを励ましたいからだと聞いていたのに、あんなことに使うなんて。
 う、まずはそこからなんだ……先が思いやられた。
「はい……だって本当のこと言ったら、エアハルトさん教えてくれないと思ったから」
 ──それはもちろん。
 でもいたずらがしたかったわけではないのだ。それを伝えたくて、私は更に怒られるのを覚悟して口を開いた。
「言い訳を承知で言わせていただきます! 私は守りたかったんです。兎を……私の大事な人たちの大切なものを」
 ──それはわかるけど、相談くらいしてくれれば良かったのに。
「え? そんなことしたら止めるじゃないですか」
 真面目なエアハルトさんが協力などしてくれるとは思えなかった。それにエアハルトさんは、王子達からエミールを助けてくれなかったのだ。私はそこは未だ根に持っていた。
 ──今日みたいなやり方だったらもちろん止めるけど。他の手だてを一緒に考えてあげることなら出来るから。
「そんな! じゃあなんであのときエミールと兎を助けてくれなかったんですか? 都合の良いときだけ、そんなこと言ってるんじゃないですか!?」
 怒られているはずの私が逆にエアハルトさんをなじっていた。だってそんな気持ちがあるなら……あのときのエミールの気持ちを考えると私は涙が出そうになる。
 エアハルトさんはそんな私を怒るでもなく、厳しい眼差しのままの瞳を伏せた。
 ──君たちは、王子二人の恐ろしさを知らないんだ。
「知ってます!! 残酷で非情で……エミールはあんな風に……」
 ──エミールが襲われていたとき、君が出ていっていたら、あの先間違いなく姫にお仕え続けることは出来なかった。
「う、辞めさせられるってことですか?」
 ──それならまだいい。兎と同じように殺されていたかもしれない。
 ラインヴァルト王子の冷酷な横顔と無惨な姿となった兎を思い出し、背筋が冷えた。
「大袈裟ですよ……誰かに知られたら王子といえど……」
 ──悪魔憑きの少女は自殺した……それで済ませられるだけだ。
 ありそうな話ではある。でも、まさか。
 ──同じ手口で殺された者がいる。
 そうか、姫様の恋人も自殺ということになっているのだから、ありえないことではない。
 ──今回のことにしても、彼らは森にいる兎を全部殺してしまおうとするかもしれない。
 これにはエミールがひっと息を呑んだ。
 ──君たちは兎を守ろうとしたかもしれないけど、それが逆効果になることもあるんだ。
 確かに神をも恐れぬ不遜な王子達は、たたりならばそれを起こしている動物を皆殺しにしようと考えるかもしれない。
「……私たちは大変なことをしてしまったんですね」
 ようやく自らの重大な過ちに気がついた。これで全て上手くいくと思っていたあの日の自分を叱咤してやりたい。
 ──今回は、蜂の方に矛先が向けられるかもしれないけど……何にせよ、罪のない生き物が犠牲になることは確かだ。
 蜂の巣を投げてくれたのはエアハルトさんだった。防寒用の毛皮を使って、熊に見せかけてくれたという。迫真の演技というやつだ。
「蜂さん、ごめんなさい……」
 エミールは兎の身代わりとなった蜂に謝罪の言葉を口にした。
 ──もう、危険なことはしないと誓ってくれる?
 私たちは顔を見合わせた。心の底から反省していた私たちは、躊躇いなく頷いた。
「はい、反省してます」
「もうしません……」
 エアハルトさんはうんうんと頷くと、すっかり冷えてしまった飲み物を引くと新たに入れ直してくれた。涙混じりにそれを飲むと、身体の奥からほかほかと温まっていった。
 厳しかった瞳は、以前のように穏やかで優しいものに戻っていた。
 ──それでも、感謝もしているんだ。姫を守ろうとしてくれたこと。
 ……言わずともわかってくれたんだ。
 ──それに君たちが無事で本当に良かった。
 くしゃりと髪を撫でられ、私は次々溢れる涙を止めることが出来なかった。
 

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