孤塔の姫君

「アルマ! 無事で良かった!」
 私たちがエアハルトさんに叱られた次の日、孤塔に訪れた私をロスヴィータ様は抱きしめて迎えてくれた。
「姫様……」
「エアハルトから聞いたわ。もう危ないことなんてして……」
「すみません……」
 兄王子達の謀略で恋人を失った姫様だもの、きっとものすごく心配してくれたんだと思う。私はますます申し訳ない気持ちになった。
「私は今のままで充分よ。あなたがいてくれて……それで充分なの」
「守りたかったんです……姫様の思い……」
 呪われし姫と呼ばれようが、悪魔憑きの世話係がいると噂されようが、姫様の聖域を誰にも侵されたくなかったのだ。
「ありがとう……」
 何があっても守り抜くのだと強く心に誓った。
 
 王子二人も蜂からの攻撃にはさすがに応えたようだった。しばらくは公に姿を現すことはなかった。孤塔の近くの森では、蜂の巣狩りと熊捜索が行われることとなり、エアハルトさんが言ったとおりの展開になった。ただ、兎のたたりの噂は、私たちがもう二度と人々を驚かすことがなかったので、徐々に消えていった。兎狩りが行われなかったことがせめてもの救いだった。
 しばらくはまた平穏な日々が訪れた。私はもうこの生活にすっかり慣れていて、昼になると必ず部屋を訪れた。姫様は時折午睡をされ、ノックをしても返事がないときもあった。しかし鍵は閉められておらず、いつでも入ることが出来た。
 今日も姫様は奥で休まれているのか、ノックをしても返事がなかった。私は室内に入り、昼食をテーブルに置く。姫様が目覚められるまで刺繍の続きをしようと針と糸を手に取った。ロスヴィータ様に習うようになってから、格段に上達した。姫様がお好きだというアンブロシアの花を縫いつけていたが、完成はまだかかりそうだった。これが上手くいけばエミールに兎の刺繍をしたハンカチを贈ってあげようと考えていた。姫様は、エアハルトさんにあげるハンカチと私にくださるものを同時進行で進めていた。姫様が私にも縫ってくださるというその事実がどれほど嬉しかったことか。しかしあれ以来、姫様とエアハルトさんの仲を取り持つ作戦は進展していなかった。エアハルトさんはどこか一線を引いている。それが悲しかった。
 刺繍の糸が足りなくなったので、裁縫箱から取ってこようと椅子から立ち上がり、裁縫箱に手を伸ばしたときだった。姫様がお目覚めになったのか、カーテンの奥から衣擦れの音が聞こえた。
「……クラウス、そこにいるの? 私なんだか懐かしい夢を見ていたみたい。あなたが昔……」
 カーテンから顔を出した姫様は、私に気付くとひどく驚いた顔をした。
「あら、アルマ。あなただったのね」
「姫様、おはようごさいます……あの、クラウスさんって……?」
 ロスヴィータ様は何度か瞬きをすると、苦笑いを漏らした。二、三度首を横に振る。
「私ったら寝ぼけているのかしら。クラウスは昔いた使用人の名前よ。夢を見たから、間違えてしまったのね。彼がいるはずないのに」
 姫様でもそんなことがあるんだ。しかし私やエアハルトさんとしか顔を合わさないという生活が長いのに、それほど忘れられない人物だったのだろう。
「姫様、お食事の用意が調っております。よろしければお召し上がりくださいね」
 過去や思い出は、色褪せたが故の輝きをもつことも、忘れられぬ深い傷になることもある。けれど今は──姫様の前にはもう一つの未来が開けているというのに。どうにかしてそれに気付いて欲しい。私はそう思っていた。

「エアハルトさん、どうにか姫様に想いを伝えることは出来ないんですか?」
 私はしつこく、姫様にとっての未来であるはずの当人に食い下がっていた。
 ──君が何と言おうと、このままでいいんだ。
 なかなか頑固な人なのだ。
「んもう、そんなんだから、クラウスさんに負けるんですよ!」
 私がその名前を出すと、彼はきょとんという表情をした。いきなり知らない男の名前を出されてもわけがわかるまい。ライバルがいないと思っているエアハルトさんに発破をかける作戦だ。
「今のエアハルトさんは、姫様の使用人であったクラウスさんに負けてるんです。まずはそこからです。姫様の頭の中からクラウスさんを追い出してください!」
 私はかなり本気だったのに、エアハルトさんは苦笑という感じで肩を揺らした。
 ──その人が羨ましいけど、素直に負けを認めるよ。だからもういいんだ、アルマ。ありがとう。
 いかにも自己完結と言ったその返答に、私は完全に頭に来た。
「意気地なし!」
 そう罵ったのに、彼は何故だかとても幸せそうに微笑んでいた。
 
 全くエアハルトさんはどこまで遠慮深い性格なのだろうか。人生の日陰を歩いてきたのだろうけど、だからこそ一度くらい眩しい光を浴びてもいいではないか。私は一人でいらいらとし、見たこともないクラウスさんとやらが憎くなってきた。未だ姫様にとって忘れ得ぬ人物であることは確かなのだから。
 そこで私はふと気がついたことがあった。姫様の使用人なら、姫様を知っているリーザなら知っているかもしれない。どんな人物か調べてまたエアハルトさんに教えて少しは困らせてやろうと意地悪なことを考える。そのぐらいしないと、彼は私の気持ちなどわかってはくれないだろう。
 
「ねえリーザ、聞きたいんだけど……」
「言わないわよ。もう、最近は聞いてこなくなったと思ったのに、またなの?」
 リーザは口を貝のように閉ざす準備は万端のようで、私を迷惑そうに横目で見た。
「二年前の出来事はもういいから。今回は別のことよ。ね、クラウスさんって人知ってる? ……姫様の」
 使用人で続けようとしたが、リーザはクラウスという名前を聞くなり顔色を変えた。
「……どこで聞いたの?」
「え? えーと、小耳に挟んで……」
 まさか姫様から聞いたというわけにもいかず、私はしどろもどろにそう答えた。
「その名前はここでは禁句よ。もう二度と口にしないことね」
「どうしてよ」
 リーザは人目を憚るように辺りを見回し、私に耳打ちした。
「今回だけ特別よ。クラウスは姫様の勉学の先生だった人よ。姫様との仲が知れて、自殺したっていう。もっぱら、殺されたって噂だけど。このことについて触れるのは禁忌なの。よく覚えておきなさい」

 姫様は私に嘘をついた。
 クラウスが姫様の恋人だったとすれば、夢うつつに呼んでしまうことも理解できる。けれどどうして私にまで使用人などと嘘をつくのだろう。私が同情するから? 心を痛めると思って? それが姫様の心遣いだとすれば嬉しくもあるが、悲しい気持ちの方が強かった。私は、姫様に信頼されてないんだ。きっとエアハルトさんは知っていた。だから、彼に敵わないことを初めからわかっている。私はまだ、彼ほど姫様に信頼されていないということだった。エアハルトさんに比べれば短い付き合いではあるが、それでも寂しかった。
 意気消沈しながらも、私は孤塔へ向かった。今日も姫様は奥で休んでいる。顔を合わせずに済んだことに安堵している自分がいた。やはり信じてもらえないということは辛い。
 刺繍をして心を落ち着けようと椅子に座る。刺繍はもうすぐ完成を迎えようとしていた。姫様も休む前に刺繍をしていたのだろう。私とエアハルトさんの為に綴られた刺繍が誇らしげにハンカチの上に広がっていた。どうしてこんなに精緻に縫えるんだろうと、しげしげと眺めるためハンカチを手に取ると、その下に隠れていたロケットが現れた。細い鎖に繋がれたそれは、大切な何かが収められているものと決まっている。罪悪感がなかったと言えば嘘になる。でも、姫様も私に嘘をついた。だからこれでおあいこなはずだった。
 大切なものなのだろう、銀のロケットは磨き上げられていた。そっと蓋をあけると、小さな肖像画が現れた。それが姫様の恋人であることは簡単に想像がついた。黒髪の青年がこちらを向いて微笑んでいた。姫様の中で彼は永遠に時を止め、生き続けているのだ。
「クラウスさん……」
 姫様を幸せにしたかっただろうに……でも、叶わぬ恋だと初めからわかっていたのだろうか? 今となってはもう何もわからない。
 私は姫様の神聖な思い出を盗み見てしまったような居心地の悪さを感じ、急いで蓋を閉めた。元の場所に戻そうと思ったとき、ふとあることを思い出した。何かを見落としたような気がしたのだ。もう一度蓋を開くと、変わらず彼は微笑んでいた。優しそうな鳶色の瞳だった。
 その瞬間、私の中でめまぐるしい情報が飛び交い、一つの答に収束していくのを感じた。そうだ、だから──。
 私は姫様が刺繍を完成させたハンカチを引き寄せた。私にくださるハンカチには、私が真似できるようにとアンブロシアの花の刺繍、そして私の名前の頭文字が入っていた。そしてエアハルトさんにあげるはずのハンカチには、始めに縫っていたリスと、一輪の薔薇。そして頭文字。エアハルトのものではなく、それはクラウスの頭文字だった。

 少しすると、姫様がカーテンの向こうから姿を現した。今日はあの日のように、私を間違えて呼んだりしない。
 私は神妙な顔をして姫様を出迎えた。それに気付いた姫様は、心配そうに私の顔を覗き込んだ。
「どうかしたの、アルマ?」
「……私では信用に足りませんか?」
 ロスヴィータ様は困ったように首をかしげた。
「あなたのことは信頼しているわ。私はあなたのことが大好きだもの」
 平生に言われたなら、これほど嬉しい言葉はない。でも私はもう知ってしまったのだ。
「では、どうして教えてくださらないんですか……」
 部屋にノックの音が響く。エアハルトさんだ。彼は私と姫様を見比べ、どうしましたかというように姫君に視線で確認する。姫様は首を横に振った。
「私は、あなた方を祝福したいと思っていますのに……!」
 これが私の心からの気持ちだった。
「アルマ……」
「エアハルトさん……いいえ、クラウスさん。あなたは殺されそうになりながらも生きていらっしゃったんですね……」
 姫様の恋人は殺されたはずだった。でも現に今こうしてここにいる。なんらかの事情で生き延びたクラウスさんはとっくに姫君に再会していたのだ。
「ごめんなさい、アルマ……こうやって謝るのは二度目ね」
 姫君は私の言葉から全て理解したようだった。
「あなたを信用していないわけじゃないの。誰にだって言わないでおこうと思った。でも結果的にそれがあなたを傷つけることになったのね……」
 長いまつげの影が落ちる翡翠の瞳を伏せ、姫君は儚く笑んだ。クラウスさんは、気遣うように姫様に寄り添い、肩に手を当てる。
「でもね、どうしても彼が生きていることを城の者に知られるわけにはいかなかった。今度こそ確実に殺されるに決まっているから」
 ああ、そうだ。少し考えればわかることだったのに。姫様は心からクラウスさんを愛している。姫君が本当に守りたかったのは、死んだはずの恋人だったのだ。
「そうですよね……もう二度と失いたくないと思ったはずです」
「わかってくれてありがとう。もし良かったら聞いてちょうだい。あまり楽しい話ではないけれど……」
 そうして姫様は、今度こそ私に真実を語ってくれた。
 
 二年前、クラウスさんは王子たちにはめられ、拘束された。姫君はいずれ政略結婚の駒として利用するから、姫君にとって邪魔だと言われ、彼は殺されることとなる。王子たちはクラウスさんをただで殺すことをよしとせず、口答えが出来ないよう、舌を抜き、拷問にかけた。そうして最後は炎の中に彼を投げ入れた。そのまま彼は死ぬはずだった。しかし死体の処理を王子に任された医務官は、クラウスさんにまだ息があるのを知ると、彼を助けるため全力を尽くした。上半身はひどい火傷で覆われ、治療中もいつ死んでもおかしくない状態だったそうだ。けれど、医務官とその家族の献身的な看護の末、彼は一命を取り留めた。
 それから一年ほどが経過した時、クラウスさんは姫様に会うことを決意したのだった。自分が死んだことになってから、姫様は孤塔にこもり誰とも会おうとしないという話を聞き、自分の死が彼女から別の未来まで奪ってしまったことを知る。自分が生きていることだけ知ってもらえれば、彼女の心も少しは軽くなるだろう──そう、クラウスさんは考えたようだった。
 クラウスさんは医務官の力を借り、姫様の世話係として城に潜り込むことに成功した。口が利けないクラウスさんは、始めは姫様に手紙を書いたそうだ。二人にしかわからない秘密の暗号。ロスヴィータ様は、私に言ったように、初めは本当にクラウスさんが自分を殺しに来たのだと思ったのだと語った。彼を死へと追いやった兄王子とは血を分けた兄妹なのだ。クラウスさんが憎く思わないはずがなかった。けれど彼は、姫様に自分が生きているという事実だけを伝えに来たという。気に病むことはないと、そして未だずっとロスヴィータ様を愛していると──。赤い薔薇を一輪だけ持って、そして花言葉に想いを託して。けれどクラウスさんも、こんな姿になった自分を姫様が好きでいてくれるはずないと理解していた。しかし姫様は、どんな姿になろうと、生きていてくれたことが嬉しかったと、彼の全てを受け入れたのだ。
 私は姫様が語る言葉の一つ一つに悲しいやら悔しいやら感動したやらで涙が止まらなかった。クラウスさんが過去に言った言葉が今なら心から理解できた。王子たちにあれほど恐ろしい目に遭わされたクラウスさんなのだ。否応にも慎重になる。それを私は意気地なしなどとよく罵れたものだ。クラウスさんは、どうしたって王子二人の前に姿を現さない方がいいのだ。それなのに、私とエミールを助ける危険まで冒してくれた。姫様の言ったとおり、彼は本当に優しい人だ。
 ──アルマは君と私の仲を取り持とうと、何度も奮起してくれたんだよ。
 クラウスさんがロスヴィータ様にそう知らせると、姫様はにっこりと微笑んだ。
「出来るだけそっけないつもりで接していたのに……私の気持ちは筒抜けだったのかしら」
「包帯を作る姫様の優しい瞳が全てを物語っていましたよ」
 照れたように笑うロスヴィータ様の手を取り、優しい眼差しで見つめるクラウスさん。私もいつかこんな風に、相手の全てを受け入れ、認められる恋が出来るだろうか。見た目ばかりに気を取られ、本質を見逃している内はまだまだかもしれない。
 私にはやるべきことが出来た。二人のささやかな幸せを、守り続けるという大事な仕事が。
 まずはこの叙事詩の一節を流行させるところから始めよう。
 
 アンブロシアの咲き乱れる花畑のその奥、深き森に囲まれし孤塔に、深窓の姫君がおわす。太陽のごとく輝く金の巻き毛、深く澄んだ翡翠の瞳。けれど姫君の姿を見ることは叶わない。呪われし孤塔の姫君、無理にその姿を見ようとするならば、災いが降り注ぐことだろう──。
 
 そして新たに語り続けるだろう。この切ない、そして幸せな恋の結末を。
 

(完)

 

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読了ありがとうございました。

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