世界の終わり 花咲く日


 朝、いつものようにゴミ出しのためにアパートを出ると、ゴミ捨て場に女の子が倒れていた。
 時刻は午前五時半。梅雨も明けたばかりの空には夏らしい雲が浮かんでいる。早い時刻のためか、収集場にゴミの数は少ない。しかしどう考えても、その女の子がゴミとして捨てられているとは思えなかった。
 僕は辺りを見回した。早朝の町に人影はない。このまま彼女を放っておいたとして、誰かがどうにかしてくれるのだろうか。というか、なぜゴミ捨て場なんて非常識なところに倒れているのかわからない。倒れるにしたって、もっと他に適切な場所があったのではないか。
  コンパでつぶれたのだろうか。彼女が着ているのは真っ白い飾り気のないワンピースだった。これが彼女の勝負服なのか。よく見れば靴を履いていない。色白を通り越して白すぎる肌に、色素の薄い茶色の長い髪。どことなく、彼女はその存在自体が現実離れしていた。
 僕の住まうアパートは、近くの大学に通う学生が住人のほとんどという家賃も安くボロいといって差し支えのない代物だ。見知った顔ではあるが、学部や学科が違う彼らとは親しい友人ではないにしろ、彼らが毎夜遅くまで騒いでいるのは知っている。そんな彼らの騒音にイライラしながらも、僕は明け方まで誰に見せるでもない文章を書いていた。ようやくきりのいいところで終わりにして、ゴミ出しをしてから寝ようと思っていたのに。
 もう少し近づいて、彼女を観察してみる。僕と同じ、大学生ぐらいだろうか。うつぶせに近い状態で倒れている彼女の顔を横から覗き見ては、思わず息を呑んだ。
 それはもちろん見知った顔ではなかった。それどころか、最初に感じたように、彼女は浮世離れしているように感じたのだ。要するに――ものすごく可愛かったのだ。
 僕はもう一度辺りを見回した。別に僕が不埒な考えを起こしたというわけではない。僕だって健全な男子学生なのだから、可愛い女の子に心惹かれないわけがない。つまり、僕だけでなく彼女を見て同じような気持ちになる連中が現れないとは限らないのだ。
 逡巡はおそらく一瞬だった。彼女が目覚めた時に、僕を変態と罵るかもしれないということが少しだけ決意を鈍らせたが、彼女がアパートに住む野獣たちにどうにかされるよりかはマシだという結論に達した。
 彼女の体を抱き上げると、驚くほど軽かった。まるで、天使か妖精がこの腕の中にいるみたいだった。

 ひとまず狭いアパートの一室に彼女の体を横たえると、僕は一つ息を吐き出した。敷きっぱなしの薄っぺらい布団に現実離れした美少女を寝かせるという行為に少し罪悪感が募ったが、この部屋の中に他にもっとマシな場所があるでもなし。もうここまで来てしまえば、何も恐れるものはないような気がして、僕は今度こそ遠慮なく彼女の顔を見つめた。
 化粧っ気のない肌は真っ白だが、顔色が悪いというわけではなさそうだった。彼女の両目は固く閉ざされたままで、見ているだけなら精巧に作られた人形ではないのかと錯覚しそうになる。だが、静かに繰り返される呼吸が、僕に彼女が現実の存在なのだと知らしめているかのようだった。
「天使か妖精かと思ったけど……」
 思わず呟きが漏れる。彼女は本当に可愛らしいとも美しいとも誉めて間違いないのだが、僕は彼女を見ているうちに、どこかしら儚げな印象を抱いてしまった。
「人魚姫って感じだな」
 海の世界から人間界へと放たれ、慣れない足で見知らぬ世界を歩いていく――彼女の裸足を見て、そんなことを思ってしまったのだ。小さいときからこんなことばかり考えているから、親からは空想も大概にしなさいと呆れられている。
 しかしどうしたものか。今日はこのまま昼まで寝る予定にしていたのに、僕の布団は彼女に占拠されてしまっている。他で寝るにしても、先に彼女が目覚めてしまった場合、恐ろしい修羅場が訪れるに違いない。とにかく、彼女が目覚めるまで待って、僕の善意について理解してもらわなければならない。
 僕はそう決意し、彼女が目覚めるまで本を読んで待つことにした。
 しかし彼女はなかなか目覚めなかった。太陽が高く昇り、夏の日差しが容赦なく窓ガラスからこちらを照らす頃になっても、穏やかな寝息をたててはすやすやと眠り込んでいる。
  昼ご飯でも用意しようと台所に立った僕が、彼女が目覚めたときのことを考えて、チャーハンを二人分作ろうか思案しているときだった。ボロアパートに似つかわしい古びた玄関チャイムの音が響いた。
 この部屋に客が来ることなどほとんどない。だとすれば運送会社か新聞の勧誘か。時たま親から仕送りの品々が届けられる。インターホンなど気の利いたものはないので、僕は玄関口まで行くとドアを開けた。
 そこには、男が一人立っていた。ただの男ではない。ものすごく怪しい男だった。
「……間に合ってます」
 それだけ言ってドアを閉めようとする僕に、男は素晴らしい早さでドアが閉めるのを阻止した。
「こちらが何か言う前に閉めることはないだろう! まるで僕が怪しい人間みたいじゃないか」
 この暑いさなかにきっちり着込んだ黒スーツにサングラス。大学生の安アパートを訪ねるにしては怪しすぎる格好だ。
「いや、その通りだから自己防衛を……」
「怪しい者じゃないって。少なくとも、君にとって僕は必要なはずだ」
 初対面でこんなことを言ってくる人間が怪しくないはずはない。
「宗教とか、ほんと興味ないんで」
「勧誘じゃないから。本当に日本人は宗教と新聞の勧誘を毛嫌いするよね」
 しばらく僕と奴とのドアを挟んでの攻防が続いたが、それは男が口にした一言であっけなく終焉を迎えた。
「君の部屋に女の子がいるだろ? 僕はその子を回収に来たんだ」

 見るからに怪しげな男をそれでも部屋の中に入れたのは、やや持て余し気味だった彼女をどうにかする人間が現れたことへの安堵なのか、彼女を部屋まで運び入れてしまった自分の行動に対する罪悪感と後ろめたさをどうにか正当化しようとした結果なのか、それはよくわからなかった。
 男は何を聞くでもなくずかずかと部屋にあがると、眠り込んでいる少女を見て、ふむと一度頷いた。
「まだ目覚めてはいない……か」
 僕は男を観察した。室内でもサングラスを取ろうとしないので、その表情まではよくわからない。年齢は二十代後半から三十代前半くらいだろうか。背も高く、顔も綺麗なつくりだと言える。やや伸ばし気味の髪から軟派な印象を受けるが、俳優だと言われたらそれも頷ける。
「それで、あなたは誰なんですか?」
「ああ、そうだったね」
 僕の至極真っ当な質問に対し、男は今更気づいたというように名刺を差し出してきた。
〈インプラクティカルコーポレーション   代表 秋月(あきづき)斗馬(とうま)
「芸能関係の仕事かなんかですか?」
 もらった名刺をしげしげと眺める。聞いたことがない社名だが、秋月と名乗るこの男の雰囲気を見てそんな風に思ったのだ。
「ああ、残念ながらそこに書いてある電話番号にかけても通じないから。会社名も適当だし」
 一瞬、言っている意味がわからなかった。というか、もしやこれは――。
 僕は焦って窓を全開にして外を確認した。ゴミ捨て場にあったゴミ袋たちは既に回収されている。そして、僕が恐れていたものはそこにはなかった。しかし、まだ油断ならない。部屋のあちこちを確認する。どこかにカメラでも隠されていないかと――。
「どうしたの、急に慌てだして?」
「どうせ、ドッキリか何かでしょう? おかしいと思ったんだ。女の子が、ゴミ捨て場に落ちてるなんて!!」
 愚かな学生が下心を抱いて彼女をどうにかするだろうというその罠に、僕はまんまとはまってしまったのだ。
「……ああ、そういう企画のテレビ番組あるよねえ。でも、そうじゃないよ。それが君にとって残念なのか良かったのかよくわからないけど」
「ドッキリじゃないなら、なんでこんな名刺渡してくるんだ! まさか、名前まで偽名じゃ……」
「まあ、確かに名前も本名じゃないけどさ……なんでって言われると、一度名刺を作ってみたかったから。で、せっかく作ったからには誰かに渡したいなあ、って。記念すべき一人目なんだから、もっと喜んで欲しかったな」
「そんな自己満足を他人に押しつけるなよ! ドッキリじゃないってんなら、あんたもこの子もなんなんだよ。どっちも非常識的すぎるだろ!!」
 僕の非常に正論と言える怒りにも、目の前の秋月には全くぴんとこないようだった。ひょっとしてこちらの方が間違っているんじゃないかと不安に思えてくるくらいだ。
「それを今から説明するよ。……でも、君もそんなに常識人だとは思えないけど。そういう非常識な存在を拾って来ちゃうんだからさ」

「君のイライラがあんまり募らないうちに要点だけを言うとだね……彼女はちょっとした手違いでこの世界に来ちゃった『この世ならざるもの』で、僕は彼女を回収しに来たってわけ」
「ドッキリの続きなんだったら、もっと騙せそうな嘘をつけばいいのに」
「いや、だからドッキリじゃないから。まあ、そう思いたいならそれでいいよ。別に僕はそこら辺はどうでもいいし。とにかく、彼女はこの世界にあるべき存在じゃないんだ。回収しに来たって言ったけど、実は連れて帰れない事情があってね。ただ、彼女はいろいろ特殊で、この世界でその存在を誰も認識しなければそのうち消えていくんだ。どうやら接触したのは君だけみたいだし、君さえドッキリだったと思って忘れてくれれば、そのうちに彼女も消えてなくなるって話」
「ちょっと待てよ!!」
 秋月が語ったあり得ない話も大概だが、それより気になるのは……。
「彼女はこのままじゃ消えるっていうのか?」
 こんな嘘くさい話を信じているのかと問われれば、そんなわけはないが、それにしても穏やかならざる話だ。嘘ならいいが、万が一本当だったらと思うと、いてもたってもいられない。
「そう、消えるよ。心配いらないよ。死体とか残ったりしないし。文字通り消えてなくなるだけだから」
「あんたは、それでいいって思ってるのか?」
「だって、この世界にはこの世界なりの法則やらルールやらが存在するでしょ。そこに当てはまらない彼女は、この世界にいてはならない存在なんじゃないの? 君たちだってそう望んでると、僕は思ったんだけど」
「人が死んだ方がいいと思う世界があってたまるか!」
 僕の怒りをはらんだ声にも、秋月は涼しい顔だ。それどころか、どこか愉快そうにこちらを見つめているではないか。
「ふーん、まあそう思うのも理解できなくはないけどね。でもさあ、もし倒れていたのがこんな可愛い女の子じゃなくて、グロテスクな生き物だったとしても同じことが言える? ……ああ、それとも『人』って認識してもらえない時点でだめなのかな?」
 僕はぐっと言葉を詰まらせた。悔しいが秋月の言っていることは一理ある。少なくとも、彼女だからこそ僕は部屋に連れて帰り、このままでは無情に死に行こうとしている事実を憤っているのだから。
「彼女が生きるチャンスを得たというのなら、それはこんな外見で倒れていたからだろうね。生命って神秘だよねー。知らない世界に来ても、こうやって生きようとあがいているんだから」
「あんたは一体何者なんだ?」
 『この世界』と秋月は言った。それはすなわち、奴がこの世界の存在でないことを意味している。これがドッキリだとしたら上等だ。ボロが出るまでとことん付き合ってやる。
「うーん、君たちに理解してもらいやすい言葉が思いつかないんだけど……世界を見回ってるパトロール隊みたいな? まあ、そこらへんはご自由に想像してもらって構わないよ」
 全く意味がわからない。しかしその辺は軽く受け流した方が良さそうだった。
「それで、彼女は何者なんだ?」
「それもこっちの言葉では言い表しづらいんだよねー。可能性の固まりというか。まあ、僕もびっくりしたよ。まさかこっちの世界の人そっくりになってるんだから」
「初めはこんな姿じゃなかったってことか?」
「だから、可能性の固まり。形は安定してなくて……でも確かに若い女性って感じはあったかな」
「人魚姫……とかじゃなくて?」
「なんで人魚?」
「あ、いや別に……」
 僕は口ごもった。彼女の儚げな雰囲気からそう思ったのだが、こちらこそ突拍子のない思いつきだったようだ。
「それより、このまま僕が彼女を忘れれば彼女は消えると言ったけど、それはつまり僕が忘れなければ彼女は消えないということなのか」
「うん、まあそういうことだね」
「それなら、僕は彼女を生かす道を選ぶ。確かに、同じ状況でむさいおっさんが倒れていても無視しただろうよ。でも、僕はもう彼女と関わってしまった。彼女が消えると言って黙って見てなんていられない。偽善で結構。僕はそう決めたんだ」
 秋月を睨みつけてそう言い放つ。いい加減、奴も観念するだろう。そう思っていたのに。
「へー。そんなこと言う人間もいるんだ。……いや、別に止めはしないよ。なんていうか、面白そうだし? あ、でも観察対象として時折様子を見に来るから。いやあ、これから楽しくなるなあ!」

 二、三日後にでも、テレビ局の人がやってきて、「いやあ、あんまりノリが良かったので言い出しにくかったんですよ……」とか言いながら菓子折でも差し出されるものと思っていたのに、状況は変わらずだった。つまり、例の彼女は未だに僕の部屋にいてこんこんと眠り続けているのだ。
 秋月曰く、「別に食事を取らなくても死にはしない」ということだったが、それでもやはり心配になる。人魚姫だと思ったが、眠り姫だったのだろうか。秋月は健闘を祈る、と言い残して去っていった。どこに去っていったのかは不明だ。奴が去ってせいせいしたと思っていたのに、実際は途方に暮れていた。目の前の少女を生かしたいと望んだのは確かだが、一体どうすれば正解なのかわからないのだ。
 それにしても。一体秋月の語った話はどこまでが本当なのだろうか。どうやら本当にドッキリの線は消え、彼女が一週間経ってもやつれることなく眠っていることからも、やはり彼女も秋月も常識を越えた存在だとしか思えなくなってきていた。いや、でも――。
 僕の中の理性がそれを否定する。けれど、同時にそんな不思議があって欲しいと願う僕もいた。小さい頃から空想ばかりしては両親に呆れられていたことが、そんな感慨を呼び起こすのだろうか。
 僕は彼女を見つめた。こうやってただ眠っているだけの彼女を生かしていると言えるのか。これじゃ、植物人間と変わらない。生きるからには、幸福を感じて欲しい。そう思うのも僕のエゴなのだろうか。
 不意に玄関チャイムが鳴った。僕は慌てて扉を開けた。
「やあ、その後どうかな?」
 そこには秋月が立っていた。このくそ暑い中、相変わらず真っ黒のスーツを着込み、サングラスをかけていて胡散臭いことこの上ない有様だが、僕には救世主のように見えた。
 秋月を部屋に入れると、僕は眠り続けている彼女を指し示した。
「一度も目を覚まさないんだ。このままじゃ死んでるのと変わらない。どうすればいいんだよ」
「それを考えるのは君の役目じゃないか。……でも、まあいいよ。進展がないと僕も面白くないし。とりあえず大前提がひとつ。彼女はその存在を忘れられると消えてしまう。つまり彼女の存在を確固たるものにすれば……自ずと道は開けると思うけど?」
「確固たるもの?」
「彼女がここに生きているという証拠だよ。格好良く言えばアイデンティティーとか言うの? まあ存在価値とかそういうの」
「生きているという証拠……」
 僕は眠る彼女を見つめた。彼女が何者かはわからないが、僕には彼女が普通の人と同じように生きているのだと思う。それを改めて証明しろと言われても困ってしまう。
「名前は?」
「え?」
「たとえば記憶喪失になったとする。名前がわからないのって不安じゃない?」
「まあ、そうかな」
「自分が自分であることの証明の第一歩になるんじゃないの。名前ってさ」
 秋月の言葉で僕はようやく気づかされた。僕はこの一週間、彼女に呼びかけたりしなかった。「彼女」とか「倒れていた美少女」とか「人魚姫」とかで良かったわけだ。でも、それは目の前の彼女を指す唯一の言葉ではないのかもしれない。
「名前、か……」
 僕は考えた。そうして小さく呟いた。
「マディソン」
「なんでいきなり洋風」
「人魚と言えばマディソンだろ」
「人魚と言えばポニョじゃないの?」
「……あんた、この世界の人間じゃないっていうわりに、なんでこっちの文化に精通してるんだよ」
 嫌みのつもりで言ったのに、秋月は得意げに胸を張った。
「こっちに来るのは大体週一回ってとこなんだけど、映画を見るのが楽しみでさー。いやついつい通っちゃって。結構詳しいよ?」
「ああ、そう……」
 僕は疲労感とともに息を吐き出した。名前をつけたところで彼女がすぐさま目覚めることはなかったが、現実離れした彼女が少しこちら側に近づいた気がした。

  彼女がこの部屋に来てから二週間。大学は試験も終わり、いよいよ夏休みに突入した。僕はというと、こんな事情がなくとも実家に帰るつもりなどなく、ぼろアパートの一室からバイトに出たり、サークルの集まりに顔を出す日々だった。
  彼女が依然目覚めることなく居間を占拠していることから、僕は青いネコ型ロボットよろしく、押し入れでの寝起きを続けている。帰宅する度に、彼女が目を覚ましているんじゃないかという淡い期待が胸を過ぎるが、いつも現実に打ち砕かれる。
  初めは彼女のことをマディソンと呼んでいたのだが、なんとなくそれも違う気がしていた。マディソンは借り物の名前だ。やはり、彼女には彼女だけの名前をつけなくてはいけない。それに――。
  彼女を真の意味で目覚めさせ、存在させるために僕は僕にできることを試してみようと思ったのだ。
  いつものように眠る彼女の顔を見つめては、行ってきますと声を掛け、僕はアパートを出た。

  昼下がりの街は、何の拷問かと思うくらい暑かった。蝉の合唱は体感温度を高めているに違いない。待ち合わせのファミレスに入った時、ようやくこの灼熱地獄から解放された。
「あ、先輩。こっちです!」
  ひとつ年下の洋平が、僕を見つけるなり手を振った。洋平は文芸サークル仲間だ。夏休みもこうして時折集まっているのだが、今日は僕から声をかけた。
「先輩から呼び出しなんて珍しいっすよね。何かあったんですか?」
「いや、サークルのサイトに、作品を載せてほしくて」
  洋平はウェブ担当だったはずだ。僕はデータの入ったUSBメモリを洋平の前に置いた。
「え? てことはついに先輩も作品を公開する気になったってことっすか? 読む専門だとか、見せるつもりはないとか言ってたのに」
「……心境の変化だよ。ちょっと誰かに読んでもらいたくなって……」
「そりゃそうですよね! やっぱ誰かに読んでもらってこその物語ですから。早速アップしときます」
「よろしく頼む。できるだけたくさんの人に読んでもらいたいんだ」
「なかなか贅沢ですね。わかりました。各種サーチにも登録しときますから」
  洋平の言葉に、僕はとりあえず安堵した。これが成功するかどうかはわからない。けれど、可能性に賭けてみる価値はあると思うのだ。

「先輩、あの話めっちゃ良かったっすよ! もう、こんな才能あるなら初めから言ってくださいよ」
 数日後、バイトから帰宅途中に洋平から僕の携帯に電話がかかってきた。興奮気味のその声から察するに、とりあえずその賛辞はただの社交辞令ではないようだった。
「気に入ってもらえたのなら良かったよ。正直、人に見せるのなんて初めてで自信はなかったから」
「何言ってんすか! 俺、サーチにいろいろ登録しましたけど、結構なアクセス数ですよ。それもうなぎ登り。先輩、才能ありますよ!」
 数週間前の僕なら、自分の書いた物語を誰かに見せようなんて思いもしなかっただろう。だから、たったそのことだけでも、僕は彼女の登場に感謝していた。
「ありがとな。結構な人に読まれてるってことだよな?」
「それはもちろん! 続きを希望する感想も届いてますよ。是非続き書いてください」
「そっか、続きか……」
 僕はしばし考える。これが上手くいくかどうかわからないが、上手くいくというなら続きを書いてみる価値もありそうだった。
「それにしても美咲(みさき)ちゃんでしたっけ? このヒロイン、可愛いですよね。誰かモデルとかいるんですか?」
 僕は内心どきりとした。それが初めて自分以外の人間が彼女の名前を呼んだことに対する驚きか、その背後にいる彼女の存在を洋平に見抜かれたような気がしたからなのかはわからなかった。
 僕がサークルのサイトに載せた小説は、彼女を題材にした架空の物語だった。
 ある日、男子大学生である主人公が、道に倒れている少女を助けたことから物語は始まる。彼女はこの世界の人間でなく、言葉もわからない。けれど、主人公との関わりによって世界を知っていく。そして彼女には不思議な力があって、その力で周囲の人々を幸せにしていくのだ。
 ざっと言えばこんなストーリーである。美咲というのは、物語におけるヒロインの名前であり、僕が彼女にと思ってつけた名前でもある。まだ彼女の寝顔しか見ていないが、目覚めて彼女が笑えば、きっと花が咲き誇るように美しいに違いない。この頃は、名前で呼びかけるようにはしているのだが、やはりどこかしら気恥ずかしい。しかし、彼女の名前はもう多くの人の知るところになったのだ。僕の目論見が上手くいくというなら、彼女は世界に認識され始めているはずなのだ。
「洋平はこんな女の子が身近にいたらどう思う? 非常識的だとは思わないのか?」
「可愛いが正義っすよ! むしろウェルカムです!」
 僕は心の底から、この世界とこちらに住む人間の懐の深さに感謝した。

 家に帰って鍵を開けようとしたところで、はたと気づいた。ドアに鍵はかかっていなかった。閉め忘れたのだろうか。それとも、まさか美咲が――。急いで室内に駆け込むなり僕は愕然とした。
 そこには、他人の家だというのに、この上なくくつろいだ様子の秋月がいた。
「あ、お帰り〜」
 奴は美咲が眠っている布団を隅に追いやり、居間で寝転がってはお菓子を頬張り、洋画のDVDを見ていた。
「留守だったから勝手に上がらせてもらったよ」
「帰れ!!」
 僕の頭に血が上りやすくなっているのは、決してこの暑さのせいだけではないはずだ。
「……ひどい言いようだなあ。あ、宅配便が来たから受け取っておいたよ。冷蔵庫にスイカ入ってるから。実家のお母さんからだったよ」
「他人の家で、さも自分の家のようにくつろぐなよ! というか、どうやって入ったんだよ」
「いいじゃないか。遠慮深くしても、くつろいでも大して違わないんだから」
「あんたに対する僕の評価が違ってくる」
「えー、充分役に立って、感謝されてると思ってたのに」
「いいから、とりあえず寝転がったまましゃべるな。起きろ!!」
 秋月はぶつぶつ言いながらも僕の言葉に従った。相変わらず何を考えているのかわからない非常識極まりない存在だ。
「全く……小学生かよ……」
 輪っか状になったスナック菓子を指一本一本にはめながら食べている秋月に呆れる。
「これが正しい食べ方だってネットに載ってたんだって……あっ!」
「なんだよ、そうやって誤魔化そうとしたって無駄……」
 言いかけた僕は、秋月が今まで見たことのない驚いた顔をしていたので、つられてその方向に顔を向けた。
  僕は息を呑んだ。まじまじと秋月の視線の先に目をやる。
  ――長い眠りから目覚めて上半身を起こした美咲が、こちらを見つめていたのだった。

 美咲が目覚めたことに驚いた僕たちだったが、彼女はぼんやりとした様子でこちらを見るでもなく見ると、また引きずられるように眠りに落ちていった。
「へえ、そういうことかあ」
 美咲が目覚めたと思われる理由を秋月に話して聞かせると、彼はなるほどと何度も頷いていた。
「なかなかやるじゃないか、君。そんな才能があるだなんて全く気がつかなかったよ」
「才能なんていうほどのものじゃない。ただの趣味だよ」
 僕は口の中でもごもごと言いながらも、純粋な賞賛に悪い気はしていなかった。
「しかしそういう手でくるとは思わなかった。いやーやっぱり観察してみるもんだよね。面白い面白い」
「面白いってなんだよ……それより、観察って言ったが、なんだか都合が悪くなったら彼女をどこかにやろうとしたり、僕をどうにかしようとするつもりなんじゃないだろうな」
 秋月の正体は未だ謎に包まれている。今のところ僕に協力的であるが、油断は禁物だ。疑わしそうな僕の視線に、心外だとでも言うように、奴は首を振ってみせる。
「そんなことしないよ。それに、彼女をどこへもやれないから、消えてなくなるって言いにきたんだから。まあ、君が彼女を利用してこの世界をあるべきものとは違う形に作り替えようとしたなら、さすがに仕事柄止めないわけにはいかないけど」
「僕は彼女を何かに利用する気はない。ただ、生きて幸せだと思って欲しいだけだ」
「本当に彼女は幸運な人魚姫だね。人魚姫らしく泡のように消えるところだったというのに、王子様……っぽくは全然ないけど……に助けられて生きるチャンスを得たんだから。で、その王子様は一生この子の面倒を見てくれるの?」
 秋月はその問いかけで、僕が先送りしようとしていたデリケートな問題にずかずかと分け入ってきた。
「僕が僕の意志で関わったんだ。少なくとも彼女が充分この世界でやっていけるようになるまでは見守るつもりだ。小説を公開したことが彼女の目覚めに繋がったのなら、彼女がこちらで過ごしやすいようにできるかもしれないと考えている。まあ、それはこれから目覚めた彼女がどういう行動を取るか次第だけど……」
「ふーん。あんまりに可愛いこの子を彼女にして満足したいだけなのかと思ってたけど、意外にちゃんと考えてるんだね」
「……あんた、どうしてそう失礼なことをずけずけと言うんだ」
「隠しててもしょうがないじゃないか。……それより。君の物語では彼女は目覚めてどうなるの? 言葉は話せる?」
「いや、初めはこちらの言葉はわからない。少しずつ覚えてはいくことになってるけど……」
「えーなんで最初から話せる設定にしとかないの? 意思疎通が大変じゃないか」
「だ、だって、おかしいだろ! この世界の人間じゃないのにぺらぺらしゃべれたら。リアリティーってものを追求した結果だ!」
「利便性の方が重要だと思うけどなあ。お約束ってあるじゃない? まあ、いいよ。あくまでこれは僕の予想だけど。彼女は可能性の固まりだ。きっとこの世界に合わせてうまくやるだろう。おそらく彼女は言葉を話せない以外、君たちと変わらない思考を持ち、日常生活を送るようになると思う。ご飯だって食べないといけなくなるだろうけど、まあ問題ないよね」
 僕は頷いた。秋月はよっこらしょと言いながら立ち上がると、玄関に向かって歩き出した。
「もう帰るのか?」
 いたらうるさいと思う割に、いなくなると思うとついそんな言葉をかけてしまう。
「買い物に行ってくるよ。だって君、女性ものの服とか選ぶの苦手そうだし」

 そうして僕と目覚めた美咲の生活は始まった。
 彼女は見知らぬ男の部屋の布団に寝かされているという事実に対して、嫌悪感も羞恥心も抱くことなく、もちろん僕を変態と罵ったりしなかった。やはり言葉は通じず、彼女が言葉を発することはなかったが、どことなく僕の言うことを理解しているように思えた。僕はせめて気持ちが通じるようにと、身振り手振りを交えながら、懇切丁寧に事情を説明した。彼女がこの状況を理解しているのかどうかはわからなかったが、逃げ出したりしないところをみると、とりあえずは現状を受け入れているようだった。
 まだ美咲を外に出すのはまずいと思い、この部屋で好きなように過ごしていいと伝えた。それが伝わったのか、彼女は子供のような好奇心を持って部屋中を見回っていたが、やがてひとつの場所に落ち着いた。それはテレビの前だった。
 ある日、彼女は熱心に画面を見つめていた。ほとんど一日中、彼女はテレビの前にいた。彼女が陸に上がった人魚なら、そろそろ日本語をマスターしてしゃべり始めているはずだが、現実は映画のように上手くいかないのだ。
 美咲は何かを掴むように画面に手を伸ばした。小さい子供と同じように、彼女も初めはこの画面の中に住人が住んでいるのかと思っていたようだが、すぐにそうでないと理解していた。そうわかっていながら手を伸ばしているのはなぜだろうと、僕も画面を覗き込んだ。
 テレビの中のワイドショー番組では納涼特集が組まれていた。蝉の声がやかましいこのうだる暑さの中、少しでも涼を求め、こんな企画をしているらしい。扇風機しかないこの部屋の中、美咲はもちろん一言も暑いなどと漏らすことはなかった。むろん、美咲は涼を求めてこの番組を見ているわけではないのだろう。
 画面には雪山が映し出された。雪が吹きすさぶ様を見ても僕はちっとも涼しくならないのだが、美咲は興味を示したように、雪に触れようとでもするかのように手を伸ばしていたのだ。
「雪……好きなのか?」
 僕が問いかけると、彼女は僕の方を振り返り、びっくりしたように何度か目を瞬かせた。
「ゆ、き」
 僕は画面を指し示しながらはっきりと口を動かした。美咲は発音を繰り返すように唇だけ動かすと頷いた。彼女の好きなものが、またひとつ増えた。
「そっか。でも今は夏だから冬まで待たないと見れないんだ。あー、でも冬になってもこの辺りじゃ見れるかどうか……」
 僕がぶつぶつ言っていると、彼女はまた不思議そうに小首を傾げた。この仕草が可愛すぎて仕方ない。ただ、小首を傾げることは多くても、彼女が心の底から嬉しそうに笑う顔をまだ一度も見ていない。絶対可愛いに違いないのに。
「雪、絶対いつか見せてあげるから。だから、できればそれまでにしゃべれるようになって欲しいんだけど……」
 このままでは外出もままならない。それにしてもしゃべれないどころか、声を一度も発していないのはどういうことなのか。もしかして、僕が彼女を人魚姫と思っているから、声が出ないのだろうか。
 なんとなく不安になって、次にサイトにアップする小説は、彼女が雪を見て、声を出して喜んでいる話にしようと思い立った。

 八月。高校球児たちが熱戦を繰り広げている、一年で最もあつい季節。
 かんかん照りの太陽が乾かしてくれた洗濯物を取り入れようと僕がベランダに出たときに、それは起こった。
 初めは綿くずが降ってきたのだと思っていた。上の階の住人が布団を干して叩いているのだと。けれど、白い綿のような固まりは次から次へと降ってくる。思わず腕を伸ばし、それを手のひらで受ける。白い固まりは、あっという間に溶けて消えた。
  ――それは雪だったのだ。
 あり得ない。異常気象が珍しくなくなっているとは言え、真夏に雪が降ることは考えられない。もう既にいろいろあり得ないことが起こっているにも関わらず、僕の中の理性がそう叫ぶ。大体、この暑さなのだから、地上に舞い落ちる前に溶けるはずなのに、次々と降り注ぐ雪は手のひらや地面に着くまできちんと雪の形を保っていた。
 いや、待て。上空からヘリコプターで雪をまき散らす何かのキャンペーンなのかもしれない。そう思って空を見上げるが、それらしきものは見あたらない。ただ、この辺り一帯だけ分厚い雲で覆われていることに今更のように気づいた。
 ふと隣に人の気配を感じて見やると、そこには初めて見る明るい表情の美咲が空に向かって手を突き出していた。雪が手のひらに舞い落ちると、きらきらとした瞳でそれらを興味深そうに見つめている。
 僕は細かいことなど、とりあえずどうでも良くなった。
「ほら、美咲。これが本物の雪。テレビで見るのとは違って、冷たいのがわかるだろ? 溶けると消えちゃうけど、冬なら積もったりもするんだ。そしたら雪合戦とか雪だるまとかいろいろ楽しめる」
 彼女は僕の言葉に頷くと、ますますきらきらとした目で空を見上げた。その表情は今まで見た中で一番生き生きとしていた。
 ああ、そうか。僕は理解した。僕はずっと、彼女のこういう表情が見たかったんだ。
 雪が降っていたのはほんの数十分だった。アパートの周りでも、突然の雪に驚く人々のざわめきと、子供たちがはしゃぐ声が始終響いていた。

「こんなことをされては困るよ!」
 僕たちのささやかな幸せは、秋月の言葉で打ち砕かれた。
「君は自分のことをさも常識がある人間だと思っているようだけど、それは違うとはっきり言っておくよ」
 真夏の雪を堪能してから一時間もしないうちに、秋月は僕のアパートに駆け込んできた。
「なんだよ、急に……」
「しらばっくれても無駄だからね。このくそ暑い中、あり得ない雪を降らせたのは君だってことはわかってるんだ」
 そのことに驚いたのはむしろ僕の方だった。
「僕が雪を降らせた……?」
「おいおい、自覚がない振りしてもお説教は免れないよ」
「ちょっと待ってくれよ。本当に僕がやったのか? そんなこと出来るわけ……」
 僕の当惑した様子に秋月も少しは毒気を抜かれたらしい。ふうと息を吐き出しては気怠そうに前髪を掻きあげた。
「本当に無自覚なの? 君が彼女を主役にした小説で真夏に雪を降らせたから、同じことが起きたんじゃないか」
「はあ!?」
 意味がわからなかった。非現実なことを小説に書いたからって、それが実際に起こるだなんて誰が信じるというのだろう。
「なんだよ、それ。そんなこと聞いてない。大体、今までだって小説の中の彼女はあり得ない奇跡を起こしてきた。なのに、なんで今までのは起きなくて、今回は起きたんだよ」
「うーん、実はそれは僕も謎だったんだよねえ。彼女が目覚めたことにより、力が強くなったから……かな?」
「そんなこと今言われても、僕は何も知らなかったんだ」
 秋月は痛いところを突かれたと思ったのか、苦い顔をした。
「……まあ、確かにそれはそうかもね。じゃあ、今後は気をつけてくれよ。いくら北極の氷が溶け出すご時世でも、この世界で真夏に雪は降らないから。ほんの少しの時間、わずかな範囲だけなのが幸いだったよ。異常気象で済まされるこの世の中の風潮に万歳だよ」
 なんだか口調が投げやりである。いろいろと事後処理が大変だったりするのだろうか。
「とにかく。彼女は可能性の固まりだ。何が起こっても不思議じゃない。今後はたとえ小説の中の出来事としても気をつけてくれよ。世界を変革しちゃったら、僕は君の今までの記憶を消した上で、世界を元通りに戻さなきゃいけないんだから」
「僕の記憶を消す……まさか、美咲も消えるのか?」
「ああ、その可能性は大いにあるね。彼女を直に認知しているのがまだ君だけだとすると、君に忘れられてしまったら、いずれは消えていくのかもしれない」
 その言葉を聞いた瞬間、背中を冷たいものが駆け抜けていった。

 そんな出来事があってからというもの、僕はおそるおそる小説を書くようになった。洋平からは「非現実なのが面白いのに」という残念な感想をもらう羽目になったが、美咲のことを思うと、そんな言葉は容易に聞き流せた。
 しかし。自分では当たり障りのない話を書くようにしたつもりだったのに、現実にはしばしばおかしな出来事が起こった。
 たとえば、真夏だというのにたんぽぽが咲き、公園を一周している間に黄色い花弁が綿毛に変わってしまっていた。公園にある木のうち、一本だけ桜が満開だったこともあった。
 僕は真夏にたんぽぽが咲いたり、桜を咲かせるような話は断じて書いていない。ただ、思い当たる節としては、確かにその植物は物語に登場した。植物図鑑を見た美咲がお気に入りの花として選んだからだ。
 僕はまた秋月に怒られるのではないかとびくびくしていた。こういうことが積もり積もっては、いずれ僕の記憶を消されてしまうのではないかと。しかし、秋月はそんな奇天烈なことが起こった日に僕の部屋に殴り込んでくることはなかった。秋月が僕の部屋を訪れるのは大体一週間に一回と決まっていた。だからすぐさまやって来れないから怒られないのだと思っていたが、その後会った彼も植物の件については何も触れてこなかった。

 美咲が気に入るものがまたひとつ増えた。相変わらず彼女が言葉を発することはなかったが、僕の言うことはほとんど理解できているようだった。そして僕も彼女がテレビに向かって手を伸ばすときは、それが彼女のお気に入りだとわかるようになっていた。
 テレビ画面に映し出されているのは夏の北海道。雄大な牧草地に馬の親子が放たれ、ゆっくりと足下の草を食べていた。
「美咲は馬が好きなのか」
 彼女が動物に対して興味を示したのはこれが初めてだった。そろそろ彼女を連れて外に出るいい機会だと思っていたところだ。ならば動物園に行くのはどうだろう。そう考えた僕だったが、美咲がもっと喜ぶだろう場所を思いついた。

 初めて美咲を外の世界へ連れ出した日は快晴だった。
  水色のワンピースを着て白い帽子をかぶった彼女は、目に映る全てが珍しいというように、辺りを見回していた。
「とりあえず絶対僕からはぐれないでくれよ」
 彼女の白い手を掴むと、僕は照れ隠しのためぶっきらぼうにそう言った。美咲は真面目な顔で頷くと、ほんの少し笑った。僕はその笑顔の殺人的なまでの可愛さに冷静さを失いそうになりながらも考えた。
  やはり美咲を外に出して正解だったのだ。彼女は今、こんなにも生きることを楽しんでいるのだから。
  目的の場所に着くと、美咲は想像通り目を輝かせた。
  初デートの場所だとすればあまりロマンティックではないが、彼女はものすごく喜んでくれたようだった。
  僕たちは競馬場にいた。パドックから間近に見る力強い馬の肢体に、美咲は息をするのも忘れているのではないかと思うくらい見入っていた。
  馬たちがレースのためパドックを後にすると、美咲は残念そうな顔をした。僕は彼女に電光掲示板を指し示した。
「さっきの馬たちはこれから誰が一番早いかっていうレースをするんだ。美咲はどの馬が気に入った? 応援したい馬を選んでくれる?」
 彼女は僕の言葉を聞くなりしばし思案顔をしていたが、電光掲示板に映し出された映像を見て、指さした。今まさに映し出された馬でいいのか確認すると、彼女は頷いた。僕は急いで馬券を買いに走った。
 メインスタンドで出走を待つ。美咲は馬券を握りしめては食い入るようにターフのスクリーンを見つめている。高らかなファンファーレの後、馬たちは一斉にスタートした。
 僕はターフでもスクリーンでもなく、美咲の横顔を見つめていた。彼女がこの世ならざるものだと言って、誰が信じるだろうか。彼女はこんな風に、好きになれる何かを見つけ、熱中し、確かに生きているのだから。
 彼女が喜ぶことをもっともっと見つけたい。彼女の笑顔を見たい。
 秋月が何者か、どこから来たのか、もうそんなことはどうでもいいのだ。自分に出来るというのなら、彼女を守りたい。そう、強く思う。
 気がついたときにはレースは終わっていた。慌ててビジョンに目をやれば、美咲の応援していた馬は惜しいことに二着だった。美咲は期待を込めたまなざしで、僕に馬券を差し出してきた。応援していた馬がいい成績を残すと、この馬券が素敵なものに変わると伝えたからだろう。
「……美咲の応援していた馬、頑張ったね。でも、単勝予想だったから、これは残念ながらただの紙切れのままなんだ」
 美咲は不思議そうに首を傾げた。日常生活に不便はなくとも、さすがに競馬のルールまでは備わっていないらしい。
「一着じゃないとだめなんだ。でも惜しかったよ。二着を当てるんだから、美咲は見る目があるのかもね」
 僕はそう言って励ましたつもりだったのに、彼女はなぜかものすごく残念そうな顔をしていた。

 美咲の憂鬱はしばらく晴れなかった。彼女が実際のところ、何を考えているのかはわからないが、あの競馬場での一件が尾を引いていることは明らかだった。
 純粋な彼女は、何もかもが一番でないといけないこの世界に失望したのだろうか。世の中オンリーワンを歌い始めてはいるが、金メダルを狙っていた選手が銀メダルをもらって素直に喜べない気持ちもわかる。
 繊細な美咲の心にはこれからも気を配っていかなければ。それが出来るのはきっと僕しかいないのだから。
 暗く沈む美咲の顔を眺めながら、僕は罪滅ぼしのような気持ちで、物語を綴り始めた。

 気がつけば高校野球も決勝戦まできていた。僕は見るともなしにチャンネルを合わせていたが、美咲は比較的熱心に画面を見つめていた。
 九回裏ツーアウトランナーなし。点差は一点。絶体絶命に追い込まれた最後のバッターは、フルカウントながらファールで五球粘っていた。応援チームは一発ホームランを祈り、同点に追いつき振り出しに戻ることを願っていた。汗だくのピッチャーが放った最後のフォークボールをバッターはフルスイングで空振りした。
 夏の終わりも近いなと、そんなことを思いながら美咲と一緒に食べようとスイカを切っているときだった。準優勝チームのインタビューが始まった。
 なんで優勝チームじゃなくて、準優勝チームを取り上げるのかと疑問に思ったが、きっと優勝チームを持ち上げるための演出に違いないと思い直した。だが、インタビュアーの質問や監督の受け答えを聞くに、何かがおかしい。まるで、優勝したかのようなコメントだった。
 疑問が確信に変わったのは、次いで優勝チームのインタビューが始まったときだ。明らかに、惜敗したかのような無念さを滲ませ、質問に答えていた。
 僕の背筋にまたしても冷たいものが走る。
 まさか。また、世界が変革してしまったのだろうか。
 思い当たる節なら、ある。僕は小説で、一位だけが尊ばれることなく、二位だって意味のあるものなのだということを書いた。けれど、そこに美咲は無関係なはずだ。美咲がそう思ったわけでもない。ただ、僕は彼女の意志を尊重したくて、二位が無駄なものなんかじゃないということをそっと小説に織り込んだだけなのに。
 けれどそれが原因だとすれば、全て説明がつく。今度こそ、秋月に言い逃れが出来ない。僕の記憶を消されてしまうのかもしれない――。
 とりあえず荷物をまとめておこう。どこに行くかはこれから考えればいい。そう思い、荷物の整理を始めた僕の耳に玄関チャイムの音が届く。確かに、そろそろ秋月がやってくる頃合いではある。
 言い逃れは出来ないまでも、悪気はなかったのだと言って理解してもらうしかない。せめて僕の記憶を消すことを思いとどまってもらうように――。
「やあ、暑いけど元気してる?」
 沈痛な面持ちの僕を出迎えたのは、底抜けに明るい秋月の声だった。
「あ、スイカだ! 僕も食べていっていいよね」
 いつものようにずかずかと上がり、美咲にも挨拶をする。
「……怒ってないのか?」
 怒りが頂点に達すると、こんな振る舞いになるのだろうか。
「怒ってるって何が? 僕を怒らせるようなことしたの?」
「え、いや、そんなつもりはなかったんだけど……」
 言いよどんだ僕だったが、秋月は急に何かに思い当たったというように手を叩いた。
「あー、あれか! 僕のお気に入りの映画が週間ランキングでトップになれるわけないって君が馬鹿にしたこと。君の予想を裏切って、ランキング2位だよ! 君の好きな映画は1位だったんだから、僕のが見る目があるってことだね」
 僕は我が耳を疑った。これは凝りに凝った秋月なりの嫌がらせなのだろうか。けれど、雪を降らせたときに感じたあの必死さは全く感じられない。
「そ、そうなんだよ。あんなに自信満々に言ったから気まずくてさ……」
 確かに先週映画の話をした。秋月おすすめの感動長編アニメと、ハリウッドの冒険アクションとどちらが人気かとつまらない言い争いをしたのだ。秋月の言い方では、2位の方が胸を張れる記録らしい。だとすれば――。
 秋月までが、この世界の新しいルールを受け入れてしまっているのだった。

 雪を降らせたときは、秋月は世界の変化に素早く気づいていた。なのに、今回はどうしたものなのか。確かに、今までも小さな非常識な出来事に何も言ってこなかったことがあった。それは、小さいから見逃したのではなく、気づかなかったからなのだろうか。
 僕は考えた。それこそ三日はじっくりと考えた。
 僕の仮説はこうだ。雪を降らせたとき、秋月はすぐに僕の元へやってきた。つまり、彼はその日この世界にいたのだ。彼は週に一度しかこちらに来ない。ちょうどこの世界にいればすぐさま世界の変化に気がつくが、ひとたび別世界に存在していたというのなら――次にこの世界に来たとき、もう既にこの世界として成り立っているルールを無条件で受け入れてしまうのだ。
 一番より二番が尊ばれるというルールは、僕が気づかなかっただけで、秋月が来る前に既に成立してしまっていたのだろう。
 本当のところはどうかなんてわからない。けれど、そうなのかもしれない。ひとまず、この世界の歪みを咎められることはなさそうだったが、問題はそれだけではない。僕が何気なく書いたことが、またこの先世界の変革をもたらすのなら――そして、それを運悪く秋月に気づかれてしまったなら、今度こそ僕の記憶は消されてしまうだろう。そもそも、なぜこんな世界になったのか、僕自身にもよくわかっていないのだから。ただ、この変化に美咲が関わっていることは明らかだった。彼女は可能性の固まり。彼女を通せば、不可能は可能に、非常識は常識に変わるのだ。
 考えようによっては、世界を好き勝手にできるのかもしれない。でも、僕はただ、僕の記憶が消され、彼女を失うことが怖かった。
 だから、僕は彼女をモデルにした小説を書くことをやめた。

「先輩、どうして書くのやめちゃったんですか? みんな、続きを待ってますよ」
 洋平のこの台詞ももう何度目になるかしれない。僕は僕で同じ答を繰り返す。
「……書けなくなったんだ。もう、書きたいことは書いてしまったんだと思う」
「モチベーションの低下ってヤツですか? メールで送った読者の感想見ました? あれ見れば、また書きたくなりますよ」
「洋平には悪いけど……やっぱり無理なんだ。ごめんな」
 そう言って一方的に電話を切った。それでも、洋平はまた三日後くらいにかけてくるかもしれない。
「美咲、待たせたな。行こう」
 僕は彼女の手を取ると歩き出した。
 今日は美咲と植物園に来ている。彼女の好きなものは、とりわけ植物が多かった。図鑑だけで見た植物を彼女に直に見せてあげたいとずっと思っていたのだった。
 案の定、美咲は初めて見る植物に興味津々だった。放っておくと同じ植物の前で一時間くらい立ち尽くしていそうなので、僕は適当なところで次の植物に興味を移動させた。
 芝生の広がる木陰で持参した弁当を食べていると、シロツメクサがたくさん咲いているのが目に入った。子供の頃遊んだことを懐かしく思い起こしながら、僕はシロツメクサで花の冠を作った。物珍しそうに見ていた美咲だが、僕が花冠をそっとその頭に乗せると、それこそ花がほころんだような笑顔を見せた。
 ああ、きっとこの笑顔を見るためなら、僕はなんだってしてしまうんだ。
 そんなことを考えていたので、異変に気がつくのが遅れた。異変と呼ぶのがためらわれる、それはとても可愛らしい変化だった。
 僕たちが座っている芝生の周りから、何の前触れもなく花が咲き始めたのだ。蕾どころか茎も種もない、そんな場所から花が唐突に咲いたのだ。赤や紫、ピンク、黄色……色とりどりの花たちが、僕たちを中心に同心円状に広がっては咲き初めていく。
 僕は目を見張った。彼女の笑顔に同調するように、花は美しくその場に咲き誇っている。
「だめだ!!」
 我に返った僕は、強い調子でそう怒鳴っていた。
「美咲、こんなことしちゃだめなんだ!!」
 幸せのただ中にあった彼女の顔は急速に凍りついた。同時に、咲き広がった花たちもしおれて力を失っていく。
「この世界では、これは普通のことじゃないんだ。美咲、ここで生きるならここのルールに従わないといけない。そうじゃないと、君が……消えてしまうんだ」
 最後の方は声がかれ、涙声になっていた。もし秋月がこちらの世界に来ていたら、もう終わりなのかもしれないと思うと、急に絶望感が押し寄せたのだ。
 大きな声を出した僕が怖かっただろうに、美咲は膝をついてうなだれている僕にそっと近づいてきた。ふわり、と何かが僕を包み込む。美咲が僕を抱きしめていた。
「リョウ……泣かないで」
 それはまさしく鈴の音を転がしたような声だった。彼女の声を初めて聞いたことに驚いた。そして、彼女が僕の名前を呼んだという事実にも。
 顔を上げると、とても悲しそうな顔をしている美咲と目があった。人魚姫は、王子の流した血で元の人魚の姿に戻れるという。僕の涙にもなにがしかの価値があったのだろうか。
  人魚姫が魔女にもらった人間の足は、歩くたびにナイフでえぐられるような痛みを覚えるのだという。彼女も同じなのだろうか。この世界の常識というルールは、そんな風に彼女を痛めつけるものなのかもしれない。
  彼女の笑顔を守りたい。それだけが僕の願いだ。そのために出来ることはなんだろう。
  僕は考え――そして決意した。



 季節は巡り、冬がやってきた。美咲は十二月になってからというもの、そわそわしっぱなしだった。いつ雪が降るか、そればかり考えているようだった。
「雪なんて二月くらいにならないとなかなか降らないよ。十二月に降ったとしても積もったりはしないしね」
「もう、どうしてそう夢のないことを言うの? 冬になれば降るかもって言ったのはリョウの方じゃない」
 美咲は頬を膨らませた。彼女には悪いが、こんな風に怒った顔も可愛いので、たまにわざと怒らせてしまう。
 僕と美咲は相変わらずぼろアパートに住んでいた。秋月は未だに訪ねてくるし、彼は美咲の戸籍獲得にまで乗り出してくれた。あの夏の日から一転して、平和な日々が訪れたのだ。
 僕は空を見上げた。この世界の他に世界があるだなどと言われても未だにぴんと来ないが、今となれば確かに世界は二つ以上存在するのだとは思う。
 今まで僕たちが生きてきた世界は、僕が壊してしまったのだから。
 美咲という存在は、以前の世界にとって、あるべきではないものだったのかもしれない。僕は彼女を守るため、彼女を世界にとって相応しい存在にしようと思った。けれど、本当にそれが正しいのだろうか。彼女はただ、そこにいるだけだ。嬉しいと笑い、悲しいと顔を曇らせる。彼女が幸せだと思う瞬間、辺りに花が咲く。それはこの世界で悲しいと涙が出ることと同じではないか。
 僕はそのとき気づかされた。どうして彼女を世界に合わせようとしていたのだろう。彼女の笑顔を守る。そのために世界の方が彼女に合わせればいいじゃないか――。
 彼女は可能性の固まり。美咲の不思議な力を使えば、絶対にありえないと思っている戦争根絶だとか、世界平和ももしかしたら成るのかもしれない。僕が世界の頂点に立って、全てを支配できるのかもしれない。でも、そんなものに興味はない。この世界は、ただ彼女の笑顔を守るために存在すればいいのだ。
 後悔はしていない。いつかその咎を罰として受け入れろと言うのなら、甘んじて受け入れよう。僕が壊した世界の代償に。
 大通りを歩いていると、オープンカフェでなにやら深刻そうな話をしているカップルが目に入った。男の方は、緊張の面持ちで必死に言葉を紡いでいる。やがて彼は懐から小さな箱を取り出した。それを見た彼女は驚きに目を見開く。小さな箱からはまばゆい指輪が現れた。涙ぐむ彼女。そうして辺りには無数の花が咲き誇った。辺りが祝福に包まれる。咲き誇る花が人々の笑顔と共に伝播していく。
 それを見ていた僕に気づいた美咲がにっこりと微笑む。彼女の笑顔と同じくらい美しい花が、その瞬間辺りに咲いた。誰も驚く者などいない。それはもう、この世界にとって当たり前の光景なのだから。


(完)
 


読了ありがとうございました。

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