恋の罠にご用心


 春の陽差しはぽかぽかと暖かく、そのせいもあってか、ベルンシュタットの街の中央に位置する森林公園にはたくさんの人々が集まっていた。大きな噴水を中心に、森の中に散策用の小径が作られ、街の人々にとってもなじみの散歩コースとなっている。
 子供たちが噴水の水を掛け合ってはしゃいでいるそばを、ロジーナはこの街に来てからお世話することになった大切な少女と一緒に通り過ぎた。自分よりひとつ年下で十六歳の彼女は年齢の割りにどこか頼りなく、同性であっても守ってあげたくなるような愛らしさがある。そして容姿の美しさに加え、歩き方や所作から滲み出る優雅さが、知らず人目を引いてしまうのも無理はない。
「シャルロッテお嬢様、今日も体調がよろしそうですね」
「ええ、そうなの。ねえ、ロジーナ。お散歩って本当に楽しいわ。外の空気を吸うことはこんなにも新鮮なことなのね」
 ロジーナは、頬を上気させてうっとりと呟くシャルロッテの様子を見て嬉しそうに頷いた。そして嬉しさのあまり先を急ごうとする彼女が、ロジーナが持つ日傘の影から抜け出さないようにと慌ててて差しかける。
「楽しんでいらっしゃるのは結構ですが、あまりはしゃがれてはお身体に障りますわ」
 その透き通るように白い肌を太陽光から守ることが、自分の使命だといわんばかりに、ロジーナは口を尖らせた。
 シャルロッテの銀色の長い髪を梳かして二本の三つ編みにするのもロジーナの役目であり、襟元の詰まった青いワンピースをしわ一つない状態で着てもらうことがロジーナの誇りだった。日よけの帽子を被せた上での日傘だとしても、油断はできない。あの白い肌にしみなど作ってなるものかと思っているのだ。
「でも、嬉しいんだもの。今まではこうやって外に出ることも出来なかったのよ。それがこの街に来てから毎日……ああ、本当に幸せ!」
 藍色の瞳が心底喜びに満ちているのを確認すると、ロジーナはそれ以上文句を言う気になれなかった。ずっと籠の鳥のようだった彼女がようやく羽ばたくことが出来たのだから。
「そうですね。でも、無理は禁物ですよ。良くなったとはいえ、お嬢様はお身体が弱いんです。あまりはしゃがれると疲れが出ますから」
 そう言いながらロジーナは辺りを見回した。話をしているうちにずいぶんと歩いてきたようだった。森の小径に入っていたので、頭上の木々が蔭となり日光を遮っている。日傘をたたむと、休憩用のベンチに敷き布を広げ、シャルロッテを座らせた。
「少しここでお休みください。この陽気ですから喉が渇いたでしょう。飲み物を用意してきますね」
 噴水の周辺に飲み物の移動販売を行う店が出ていたのは先ほど確認済みだ。ロジーナはすぐ戻りますからと言い添えて、シャルロッテの返事を待たずに走り出した。

 一人残されたシャルロッテは不安そうにぽつんとベンチに腰掛けていたが、道の向こうに見慣れない花が咲いているのを見つけるなり、顔を輝かせた。屋敷にある図鑑でしか見たことがなかった植物を見つけたのか、その愛らしい表情が好奇心で満たされる。
 はじめは足下の花を見つめていたシャルロッテだったが、頭上からかわいらしい囀りが聞こえてきたところで顔を上げると、木の枝に鳥の巣が見えた。雛鳥たちがおなかをすかせて親鳥を待っているのだろう。ほほえましいといった表情で見守っていたシャルロッテの耳に、今度は耳障りな鳴き声が届く。彼女が声のした方を探し当てて視線を向けると、道を挟んだ向こう側にある木の枝に、一羽のカラスが留まっていた。
 なんとなく不吉なものを感じたのか、シャルロッテは雛鳥たちの巣をもう一度見上げた。親鳥が帰ってくる様子はまだない。
「きっと目隠しぐらいにはなるはずよ」
 そう呟くと、シャルロッテは自分が身につけていたつばの広い帽子を巣にかぶせようと、木の枝に向けて手を伸ばした。そんなに高い位置にあるわけではなかったが、シャルロッテが手を伸ばしてもあと少しという距離が届かない。
 背伸びをしたり、近くに台になるものがないか探したりしたが、思うようにいかない。躍起になってその場で何度も飛び跳ねている時だった。シャルロッテの華奢な体がぐらりと傾ぐと、そのまま柔らかな下生えの中に倒れ伏した。
 白磁の肌が今は青白く、苦しそうに胸を押さえる手は、帽子を放した状態で微かに震えている。シャルロッテを嘲笑うかのようなカラスの不吉な鳴き声が辺りに響き渡った。
「君、大丈夫!?」
 カラスの鳴き声を打ち消すようなその声は、若い男のものだった。
 その場を通りかかったのだろう茶色がかった金色の髪をした青年は、整った顔に驚きを浮かべていた。彼は急いでシャルロッテの細い身体をその場で抱き起こす。そのことに気づいたシャルロッテは何か言おうと口を開きかけ──そのまま意識を失った。

 ロジーナは冷たいレモネードを片手に意気揚々と来た道を戻っていた。毎日この公園に散歩に来ているが、少しずつ距離が伸びている。シャルロッテの体調も考えながら、少しずつ歩く距離を長くしてきたのだ。広い公園だが、いつか奥にある山の上にまで行けるかもしれない。そんなことを考えては、鼻歌でも歌い出しそうなご機嫌な様子のロジーナの顔が一瞬で引きつった。
 道の向かいから見知らぬ青年が焦った様子で走ってくる。その腕の中に抱きかかえられているのが、見間違えるはずもない大切なシャルロッテその人だと気づくと、ロジーナは自分のそばを通り過ぎようとした青年に向かって大声を上げた。
「この誘拐犯! シャルロッテお嬢様をどうなさるおつもりですか!?」
 持っていたレモネードをその場に投げ捨てると、ロジーナは青年を追いかけた。
果たしてその剣幕に圧倒されたのか、逃げる様子もなくその場に立ち止まった青年は、振り返るなり面食らった表情を浮かべていた。
「あら……」
 ロジーナは思わず口に手を当て呟いた。
 振り返った青年は年の頃ならロジーナと同じが少し上ぐらいだろうか。整った顔立ちに浮かんでいるのは戸惑いで、時折腕の中のシャルロッテを心配そうに伺う様子は、一見すると誘拐犯には見えなかった。
「君はこの子の知り合い? 早く医者に診せてあげたいんだけど」
「誘拐犯じゃない……?」
「物騒なこと言わないでくれよ。この子が急に倒れたから介抱しようとしたまでだ。ただ、意識も失っているから、とにかく早く医者に診せないと」
 ようやく状況を理解したロジーナの行動は素早かった。
「侍医がいますから、お屋敷まで戻ります。すみませんが、お嬢様を運ぶのを手伝っていただけますか?」
「もちろんだ」
 青年は力強く頷いた。

「ノイシュ・フォルツ……」
 熱に浮かされたような顔と声で、シャルロッテはその名前を呟いている。
 自室の窓から外を眺め、今か今かとその時を待ち望んでいるのだ。
 その様子を先ほどから見ていたロジーナは、ため息混じりの言葉をかける。
「シャルロッテお嬢様。先ほどからその言葉しか口にしていません。もう半刻も同じことばかり。言い続けなくても、彼はここにやってきます。来ないと言っても連れてきます」
「ああ、ロジーナ。彼はどんな人なのかしら。わたし、早くお会いしたいわ」
 ロジーナはどうしたものかと一度頬に手を当て考えを巡らせる。期待が大きいと、実際に会ったときにがっかりさせてしまうかもしれない。期待値は低めに設定しておくものだろうか。
「まあ、見た目は悪くはありませんでした。身なりも、そうですね……庶民の枠から飛び出てはいませんでしたけれど。しかしお嬢様が倒れるのを見た瞬間、助けるために動いた行動力は、なかなかのものだと思いますわ」
 その言葉を聞いたシャルロッテの表情がぱあっと明るくなる。
「そうよね、彼がわたしを助けてくれたのよね……!」
 未だ見も知らぬ相手に恋でもしそうな勢いのシャルロッテに、ロジーナは焦りを覚える。生まれつき心臓に病を抱えるシャルロッテなのだ。自分の不在にあの場で倒れたシャルロッテを介抱してくれたことに関しては、感謝してもしきれない。命の恩人と言っても過言ではないだろう。けれど、いくら助けてくれたとはいえ、どこの誰だかもよく知らない相手なのだ。しかもシャルロッテは大富豪の一人娘。悪い虫がついては困るのだ。
「まあ、目の前で人が倒れているのを無視して通り過ぎていたら、人としてどうかと思いますけど。だから、彼が特別いい人というわけではないと思いますわ」
 せめてもの釘を刺しても、シャルロッテの瞳の輝きが陰るということはないようだった。
 ほどなくして、部屋の扉がノックされる。シャルロッテはその瞬間、慌てたように居住まいを正した。
 扉を開けたロジーナが使用人の言葉を受け取ると、シャルロッテに告げる。
「彼が来たそうです。応接室に向かいましょう」

 ロジーナが応接室の扉を開け、シャルロッテに入るように促したとき、件の彼は慌てたように座っていたソファから腰を上げた。その顔に焦りのようなものが浮かんでいるのを見て取ると、ロジーナは無理もないことだと思うのだった。
 彼はシャルロッテを助けたとき、彼女が何者か知らなかったのだ。先々代が金の鉱脈を発見し、今でも莫大な財産を有すると言われるリンデンベルク家の一人娘だと。
「お待たせしました。シャルロッテお嬢様をお連れしました」
 さすがに屋敷に招待されてそのことに気づいたのか、先日よりもかしこまった格好をした彼は、慌てたように頭を下げた。
「ノイシュ・フォルツです。あの、本日はお招きいただきありがとうございます」
「わざわざお呼び立てしたのはこちらですから。どうぞ気を楽にしてください。お嬢様がどうしてもあなたに直々にお礼を言いたいとおっしゃっていますので」
 ロジーナの言葉に促され、シャルロッテはノイシュの前まで進み出ると、ぺこりと頭を下げた。
「シャルロッテ・リンデンベルクです。先日は、助けていただいてありがとうございました」
 ほとんど蚊の鳴くような小さな声でうつむきながらぼそぼそとしゃべると、それきりシャルロッテは口をつぐんでしまった。気まずい沈黙が辺りを包む。
「……とりあえず、お二人ともお座りになられてはいかがですか」
 ロジーナがそう言うと、二人はぎくしゃくと腰を下ろす。
 あれほどノイシュに会うのを楽しみにしていたシャルロッテなのに、当の本人を前にすると、途端に何も話せなくなる。生い立ちのせいで友人らしい友人がいなかったせいもあるのだろう。
「シャルロッテお嬢様、せっかく来ていただいたのですから、何かお話されてはいかがですか? 招待した側がお客様をもてなすのは当然のことです。それに、この機会を逃せば、もう二度と会うこともありませんでしょうから」
 シャルロッテを促しながらも、釘を刺すことを忘れない。ノイシュが悪い人間かどうかはわからないが、それでもロジーナにはシャルロッテを危険から守る義務があるのだ。
「あ、あの、ええと……」
 ロジーナの言葉に焦りを覚えたのか、口を開こうとしたシャルロッテだったが、気の利いた話題がすぐに出てくるわけもない。
 そんな様子を見かねたのか、ノイシュが助け船を出した。
「倒れられたということは、どこか身体が悪いんですか?」
「そ、そうなんです。生まれつき心臓が弱くて……」
 何とか言葉を継いだシャルロッテだったが、明るい話題でないことにはたと気づいたのか、取り繕うように続けた。
「でも、最近は随分調子が良いのです。だから、ベルンシュタットに引っ越してきて。憧れだった学校にも通っているんです」
「学校って……この街には、お嬢様が通うような場所はありませんが……」
「ですから、皆さんが通っている学校です」
「え、あなたみたいなお嬢様がどうして……家庭教師がいるんじゃないんですか?」
 その言葉に、シャルロッテは寂しそうな表情を覗かせる。
「もちろんいますけれど……この身体のせいで、小さい頃から外に出ることもままなりませんでした。けれど、せっかく体調が優れたのですから、一度普通の学校に通ってみたかったのです」
「そうだったんですか……あ、でも街の学校なら、俺も一年前まで通ってましたよ」
「そうなんですか!」
 ようやく共通の話題ができたところで、シャルロッテの緊張も少しはほぐれたようだった。白い頬が紅潮し、深い藍色の瞳がきらきらと輝いている。ロジーナは少し安堵した。
「教科書とかまだあったかな……あ、でもそんな使い古したものなんて必要ないですよね」
「ふふ、そのお気持ちだけで嬉しいです……あ、その代わりと言ってはなんですが、よろしければ学校での思い出話を聞かせてくださいませんか?」
「あなたを楽しませられるような面白い話はあいにく……」
 渋面になったノイシュが呟いた言葉に、シャルロッテも表情を曇らせた。
「日常の他愛ないことでいいんです。ノイシュさんがおっしゃったように、わたしが街の学校に行くことは、あまり普通のことではないと他の生徒たちも思っているみたいで……同じ学友とは言っても、みんな他人行儀なんです」
 ノイシュは自分の発言がシャルロッテに失望を与えたと気づいた様子だったが、大富豪と庶民の溝を埋めるものがそう簡単に見当たるはずもない。彼が何か言うよりも早く、シャルロッテは続けた。
「学校に行けば、何でも気軽に話し合えるお友達ができるものだと思っていたんです。でも、そうはいかなかった……」
「お、俺で良ければ! その、本当に大した話じゃないですけど、話をするくらいならできると思うんです」
 ノイシュの反応は至極当然のものだとロジーナは思う。目の前の可憐な少女がいたく沈んでいる様子を見て、何とかしてやりたいと思わない男がいるのなら、ロジーナは掃除用のはたきでもって、その男の頭を正気に戻してあげようとするかもしれない。
「本当ですか……?」
「ええ、俺でよければ、ですけど。……その、あなたのようなお嬢様にもなると、人付き合いも選ばなければならないでしょうし」
 ノイシュはちらちらとロジーナの方を気にしているようだった。
「何をおっしゃっているんですか。ノイシュさんはわたしの命の恩人ではありませんか。本当なら、何かお礼を差し上げないといけないというのに、わたしの我が儘を押しつけたみたいで、ごめんなさい」
「いえ、あなたのお話相手という大役を拝命したと思えば誇らしいことです」
 意外と気障な台詞も言えるのだと冷静にロジーナが観察していると、当のシャルロッテはわかりやすすぎるくらい顔を赤くした。
「そんな風に思っていただけるなんて、本当にノイシュさんはいい人なんですね」
「それではお嬢様、お話はまた後日にいたしましょう。良くなられたとはいえ、先日倒れられた身。長時間に渡れば負担になります。めでたくもノイシュさんはお嬢様のお話相手を務めてくださるということですから、また会えることになりましたし」
 全く嬉しくなさそうな口調と棘がありすぎる言葉にも、シャルロッテは全く気づいていない。それよりも、これからのことを考えては胸を膨らませているようだった。
「ノイシュさん、それではまた来てくださいね。約束ですよ」
 可憐な笑顔を向けられ、この状況で異を唱えられる者がこの世にいるわけがないとロジーナは思うのだった。

 ノイシュは宵闇迫るベルンシュタットの街を歩いていた。確認するように空を見上げると、今夜の月は半分に欠けていた。月の半分を狼が食べてしまったという神話が残されていることから、半月の夜のことを〈狼の月夜〉と呼んでいる。ノイシュがそのことを知ったのはつい最近のことだったのだが。
 住み慣れた街は、目をつむっていても目的の場所に間違いなく着けるくらいだ。しかし彼は一年前、目をつむってもいないのに見知らぬ場所に転がり込んでしまった。これが幸か不幸かは、今のところよくわかっていない。
 夕餉の支度が調い始めた家の前を過ぎ、徐々に活気づく酒場の一つにノイシュは迷うことなく入っていった。馴染みの店では、十数名の客が思い思いに酒を飲んでいた。いつものようにカウンターに座り、「合い言葉」を店の主人に告げると、すぐさまグラスに注がれた琥珀色の酒が差し出される。それに申し訳程度に口をつけ、グラスの底に貼り付けてあるコインを器用に取り外すと、すぐに席を立つ。
 あまりにも自然に店の奥に消えていくノイシュに気をとめる者は誰もいない。店の奥にはいくつか部屋が並んでいて、そのうちの一つの前に立つ、見るからに柄の悪そうな男にコインを渡すと、男は無言で扉の鍵を開けるとその場を譲る。ノイシュが頭を下げてから入った部屋は、一見普通の客室のように見えた。ノイシュは慣れた様子で、寝台横の狼の毛皮で作られた敷物をめくりあげ、わずかなくぼみを使って床材を持ち上げる。そうすると、地下へと続く階段が現れた。大人の男がぎりぎり通り抜けられるような狭いその隙間にノイシュが身を躍らせると、元通り、誰もいない部屋がそこに存在するだけだった。

「おう、ノイシュか。ボスがお待ちかねだぜ」
 階段の先には、もう一つ酒場があるかのようだった。地下とは思えない広さは、ゆうに五十人は入ることの出来る空間で、テーブルやソファも多数あり、充分に寛げる様相だった。煙草と酒が混じり合ったひどい臭いがするが、そこにいる十数人は誰一人としてそのことを気にしている様子はない。ふと床を見やると、林立する酒瓶の多くは既に空のようだった。
 ノイシュは一番立派なソファに座って煙草をくわえている頑強な男の前で頭を下げた。
「オスヴァルトさん、ただいま戻りました」
「ノイシュか、首尾はどうだ?」
「はい、予定通りリンデンベルク家の令嬢に近づくことには成功しました。これからも会う機会を得ましたので、このまま計画を続行します」
 オスヴァルトは凄みのある顔を歪ませにやりと笑う。
「やるな色男。深窓の令嬢をどうやって口説き落としたか教えてくれ」
「い、いえ、決してそういうわけじゃ……」
「あら、ノイシュにはそういうもの必要ないのよ。この子の澄んだ瞳に見つめられたら、恋に恋しているお嬢様なんてイチコロよ。見てよ、この好青年然とした顔。誰もこの子が詐欺集団〈アーベントヴォルフ〉の一員だと疑うはずないでしょ」
 突然背後から現れた妖艶な黒髪の女性がノイシュに後ろから抱きつき頬を撫でる。
「こら、ベリンダ。お前はわしのそばに座っておけ」
「はーい。……ほら、ノイシュもどう?」
 ベリンダに差し出されたグラスを、ノイシュは丁寧に断った。
「情けないことだが、ノイシュは酒に弱いんだ。あんまりいじめてやるな」
「わかってるわ。だからちょっと酔わせてみたくて」
 舌を出したベリンダは、オスヴァルトの隣に座ると肩にしなだれかかった。
「ノイシュ、本当にお前が転がり込んできたときはどうなることかと思ったが……やはりお前は幸運の子だな。ツキと金を運んでくれる」
「そんな、俺は本当に雑用しかしてませんけど」
「しかし、今回の件はお前でなくてはこうはいかなかった。ここにいる連中を見ろ。どうやったって深窓の令嬢の元に送り込める顔をしてない」
 大口を開けて笑い、酒を飲んでいる男たちは皆むさくるしく、確かにこの場にふさわしくないといっていいのはノイシュの方だった。
「まさかリンデンベルクのお嬢様がベルンシュタットに引っ越してくるなんてな。あの大富豪は、収まりきらない財産をどこかに隠しているらしい。その在処は親から子へとしか伝えないそうだ。現在はあの病弱なお嬢様一人きり。その娘から財産の在処を聞き出すことができたなら……わしらも一夜にして大富豪だ」
 ノイシュは顔を引きつらせた。口で言うのは簡単だが、そんなにことが上手く運ぶはずもない。それでも、ようやくシャルロッテが毎日公園を散歩していることを調べ、偶然を装って近づいた。確かに運が良かったのかもしれない。持病があるとは聞いていたが、まさか彼女があのとき発作で倒れるなどとはノイシュも思ってはいなかったのだから。
「しかしまあ、無理だけはするな。下手に突っ込んでボロを出す必要はない。犬どもがどこで嗅ぎ回っているかわかったもんじゃないからな」
 オスヴァルトが最も忌み嫌っているのが、彼が「犬ども」と呼ぶ秘密捜査官だ。彼らの実態は謎に包まれているが、〈レーヴェンツァーン〉と呼ばれているらしい。国の命により〈アーベントヴォルフ〉のような詐欺集団や犯罪組織を捜査し、検挙するのが仕事である。制服を着ているわけでもなく、風のように現れ、風のように去るので、一体誰がその秘密捜査官なのか、誰も知り得ないのである。
「大丈夫よ。ノイシュが疑われるはずないじゃない」
「いえ、充分に気をつけます」
 ベリンダの気楽な口調にも、ノイシュは真面目に答える。なりゆきで詐欺集団の一員となってしまったが、未だにこの空気に慣れることはない。悪人になどなれないノイシュの良心が、シャルロッテの無邪気そうな笑顔を思い出すたび、ちくりと痛むのだった。

 ノイシュがシャルロッテと再会したのは、それから数日後のことだった。
「では、学校を卒業されてからは、そのお仕事をされているんですね」
「ええ、あの日森林公園を通ったのも荷物を届けに行った帰りだったものですから」
「もう、ノイシュさんったら。また言葉遣いが戻ってますよ」
「ああ、すみません……いや、すまない」
 シャルロッテに笑いながら指摘され、ノイシュは言葉遣いを砕けたものに戻す。友達のように接して欲しいというシャルロッテの願いに、ノイシュは応えようとするのだが、どうしても大富豪のお嬢様という印象からついつい畏まってしまう。シャルロッテはというと、ノイシュより三つ年下の十六歳ということから、丁寧な口調を改めようとはしなかったのだが。
「ふふ、謝らなくてもいいんですよ。でも、そうやって接していただける方がわたしも嬉しいんです」
 シャルロッテの話し相手となったノイシュだったが、始終監視するような世話係の少女がいる手前、身の証でも立てるように、まずは自身の現在の境遇を話すことになった。もちろん不本意とはいえ詐欺集団に荷担していると言えるはずもなく、〈アーベントヴォルフ〉では金の受け渡しや表だって運べないものを秘密裏に運ぶ役目を受け持っていることから、表向きである荷物運びを仕事にしているのだと告げた。
「学校でも皆さんにどこか距離を置かれているみたいで……わかってはいてもやっぱり寂しいんです。でも、ノイシュさんが来てくれるようになって、そんな気持ちも吹き飛びました。小さいときからずっとベッドで寝てばかりで……今、本当に毎日が楽しいんです」
 そう言って微笑むシャルロッテの肌は透けるように白い。日の光のもとにさらされたことのない事実が儚さと頼りなさを際立たせ、ノイシュはシャルロッテの孤独を思い知る心地だった。
 今ノイシュがここにいる事実は、決して自分の意志ではない。けれど、それでも。それが少しでも彼女の孤独を埋めることになるのなら。そう言い聞かせながら、ノイシュは生まれ来る罪悪感から逃れようとするのだった。

 シャルロッテと会うのは、三、四日に一度という割合だった。毎度他愛ない話しかしていないのだが、ノイシュの人柄のなせる技か、不審がられるどころか、むしろ毎日でも会いに来て欲しいといった歓迎ぶりで、とりあえず計画は驚くほど順調に進んでいた。
 シャルロッテに会う以外にも、ノイシュには仕事がある。それは裏の仕事であったり、それを隠れ蓑にするための表の仕事であったりする。運搬業と言っても、ノイシュが運ぶのは大きな荷物ではなく、手紙や文書といった物たちで、それを急ぎ依頼主から届け先まで運ぶのだ。
「よう、ノイシュ」
 馴染みの依頼主から頼まれた文書を届けに行った帰りに森林公園を歩いていると、ノイシュはよく知った声に呼び止められた。
「ああ、ラルフか。久しぶりだな」
 学生時代の友人であるラルフは、ノイシュに軽く手を挙げると、髪と同じ茶色の目を輝かせながら面白そうに問いかけてきた。
「お前、最近お嬢様のところに通っているんだってな?」
 ノイシュは露骨に嫌な顔をした。確かに噂になっていてもおかしくはないが、この「悪友」に知られるのは、なんとなくいい気がしない。
「ああ、まあちょっとしたきっかけで命の恩人とやらになってしまって、その縁で」
 ラルフは器用に口笛を鳴らすと、ますます興味深そうに顔を近づけてきた。
「へえ、お前の不幸かつ数奇な運命にも、ようやく春が巡ってきたってことだ」
「あのな、誰のせいで今こんなことになってると思ってるんだよ」
「俺のせいだって言いたいのか? 俺は助言を与えただけだ。それを実行したのはお前だろ」
 ノイシュは言い返せず黙り込んだ。確かにそうなのだが、なんとなく納得がいかない。いつもそうなのだ。二人で何かしても、直接的な被害が及ぶのはノイシュだけに決まっている。
 そしてノイシュはラルフの助言から、〈アーベントヴォルフ〉の合い言葉に偶然辿り着いてしまい、組織の一員にならざるを得なかったのだ。
「まあまあ、それでも良かったじゃないか。お前、女の子に人気もあるのに、恋人の一人も作らないんだからさ」
「この状況で恋人なんか作ったらその子を不幸にさせるだけだろ。今は良くても、この先どうなるかわからないんだから……」
 詐欺集団に与する自分に何かあったとき、家族や恋人にまで被害が及ぶに違いない。そう思うと、恋人を作る気にもなれない。
「でも、その甲斐あって大富豪のお嬢様を射止めたんだから、お前もやるな」
「お嬢様がこんな一般庶民を本気で好きになるわけないだろう。今は物珍しいだけだ。すぐに飽きられるよ」
 ラルフはノイシュが〈アーベントヴォルフ〉の一員であると知っているが、シャルロッテが組織の計画に関係していることまで知られるわけにはいかない。ノイシュは計画上シャルロッテに飽きられるわけにはいかないが、口ではそう言っておくのが自然だと思えた。
「ふーん、相変わらずだねえ。まあ、とにかく。あのことは、おふくろさんにもまだ言ってないんだろ。危ない橋渡って心配させるなよ。それこそお嬢様に気に入られて大金でもせしめれば、おふくろさんを楽にさせてやれるんじゃないのか」
「……言われなくてもわかってるよ」
 ノイシュの母親は息子が真っ当に働いていると信じている。しかし現実は詐欺集団に荷担し、いつ秘密捜査官に検挙されるか、はたまた失敗をやらかして組織から消されるかもわからない身なのだ。今はまだ、全てが危うい均衡のもと、なんとか保たれている。けれど、この先何十年も今の立場でいるのだろうかと考えると恐ろしくなる。考えをやめたところで不安は打ち消せないと言うのに、ノイシュはいつも未来のことを考えないようにしていた。

「ノイシュさん、お待ちしておりましたわ!」
 回数を重ねるごとに、シャルロッテの歓迎ぶりはノイシュにもわかるほど、熱烈と言って遜色ないほどに向上していた。その度にロジーナが嫌そうな顔をするのも確認していたが、ノイシュにはノイシュの使命があるのだ。それに、もちろんノイシュだってシャルロッテと話をするのが嫌なわけではない。
「今日のおやつは、ブラントミュラー産のチョコレートを使ったケーキです。濃厚なコクと甘みが舌の上で広がって、天にも昇る心地とはこのことだと思います。是非召し上がってください」
 シャルロッテはノイシュに椅子を勧めると、うっとりとした口調で、目の前に鎮座まします見るからに高級そうなケーキの説明を始めた。出会った頃は口数の少なかったシャルロッテだったが、最近ではよく自分から喋るようになった。ことお菓子のことに関してはいつもより多弁になる。お菓子がいい話の種になると思ったのか、今では毎回おやつが出てくるようになっていた。
「……チョコレートは、あまり好きではありませんか?」
 口にしたこともない食べ物をどう攻略しようか考えているうちに渋面になっていたらしい。そんなノイシュを見かねて、シャルロッテは不安そうに訊ねてきた。
「あ、いや、そう言うわけじゃ……食べ慣れていないからどうしたものかと」
 シャルロッテはそんなノイシュを哀れんだりすることなく、ますます興味深そうに見つめてきた。
「ノイシュさんは普段どんなお食事をされているんですか?」
「どんなも何も、大衆食堂やら酒場やら……そういったところで食べられる安いものだよ」
「まあ、酒場なんて行ったことがありませんわ」
「……いや、行かなくていいと思う」
 酒場はノイシュのような裏の世界の人間が出入りするような場所でもあるのだ。
「酒場によく行かれるということは、ノイシュさんはお酒を飲まれるんですか?」
「うん、まあ少しだけど……」
「なんだか素敵。酒場にはどんなお酒があるんですか?」
 ここまで来て、実は酒に弱いとも言い出せず、ノイシュはシャルロッテの期待に応えようと、彼女の知らない酒の名を挙げようと頭をひねらせる。その結果、ノイシュ自身もほとんど知らない酒の名前をなんとか記憶の底から引っ張り出した。
麦酒(ビール)とか葡萄酒とかは当然として、ミステルとかアルバトロスとか……あとは……トイフェルテーテン、とか」
「そんな名前のお酒があるんですね。よく行かれるんですか?」
「まあ、友達と付き合いでよく行くかな」
「わたしもお友達になったので、是非今度連れて行ってください」
「えーと、まあ許可が出れば、ね……」
 ロジーナの視線がいよいよ厳しくなってきたので、ノイシュは慌てて視線を宙にさまよわせた。
「ノイシュさんにはお友達がいっぱいいるんですか?」
「うーん、どうかな。一番の親友というか悪友というかはいるけど」
「悪友?」
「なぜか一緒にいるとろくでもないことになるんだ」
 しみじみとしたノイシュの口調にシャルロッテはおかしそうに笑った。シャルロッテが少しでも楽しそうにしてくれるのが嬉しくて、ノイシュは続けた。
「まあ、それでも大切な友達なんだ。ほら、森林公園。あそこの厩舎番をしてるんだ」
「そういえば、あそこで馬の貸し借りが出来るんでしたね。わたし、馬に乗ったことがないんです。あんな大きな生き物をお世話するなんてすごいですね」
「頼んだら、きっと乗せてくれるよ」
「本当ですか? わたし一度も乗ったことがなくて……だから、ノイシュさんに教えていただきたいです」
「お話の途中すみませんが、お嬢様。乗馬など危険なことは許可できません。どうしてもとおっしゃるのなら、屋敷の敷地内で出来るよう手配いたします」
 今までずっと黙っていたロジーナがついに口を挟んだ。確かに病弱故にシャルロッテは乗馬の練習をしたこともなかったのだろう。
「でも、身体の調子は随分いいのよ。森林公園で乗馬をする機会なんてもう二度とないかもしれない……だから、どうしてもやりたいの。それに、ノイシュさんが一緒なら大丈夫よ。きっととても上手に教えてくださるわ」
 極上の笑顔を向けられ、ノイシュは拒むことも出来ず、ただ頷いたのだった。

「ラルフ、頼みがあるんだ」
 シャルロッテと別れたあと、ノイシュは急いで森林公園のラルフのもとへ駆け込んだ。厩舎には二十頭ほどの馬がいて、それらの全てをラルフを含めて三人の人間が世話している。
 ラルフは馬の手入れをしている途中だったようで、馬房の中からブラシを片手にこちらを振り返った。
「急いでどうしたんだ? なんかまたまずいことに首突っ込んだとか?」
「そうじゃなくて……いや、でも大事なことなんだ」
 息せき切って走り込んできたノイシュの様子を、ラルフは物珍しそうに眺める。
「馬に乗る練習をしたいんだよ。それも五日後までに」
「なんでまた急に。お前、乗馬超へたくそで二度と乗らないって言ってたじゃないか」
「……お嬢様に乗馬を教えなくちゃいけなくなったんだよ……ああ、だから五日後、ここで馬貸してくれよ」
「ははあ、結局色恋がらみなわけね。なんで本当のこと言わないんだよ。見栄を張るからそういうことになるんだろ。まあ、こちらは金さえ払ってもらえれば構わないけど」
「親友の必死の頼みに金取るのかよ。練習するのぐらいまけてくれてもいいだろ」
「嫌だね。世の中そんなに甘くないんだよ。金がないなら、お嬢様に頼んで借りてこい」
「お前を親友と紹介するのが嫌になるよ……」
 ノイシュはため息をつきながらも、渋々頷くのだった。

「わたし、あまりにも楽しみで、昨日よく眠れなかったんです」
 約束の日、迎えに来たノイシュに向かってシャルロッテは頬を紅潮させながらそう言った。
 真っ白いブラウスに濃紺の乗馬ズボン、つばの広い黒の帽子に拍車のついた革のブーツまで揃えたその様は、一度も馬に乗ったことがないようには見えないほど様になっていた。
「寝不足で気分が悪くなったりしない? 具合が悪いようならまた後日にでも……」
 純粋にシャルロッテを気遣う気持ちもあったが、先延ばしにしてしまいたいという気持ちの方が強く、ノイシュはそう提案した。
「気分が悪いどころか、いつも以上に良いんですよ。これもノイシュさんのおかげです。ロジーナに随分止められたのに、ノイシュさんが口添えしてくれたから……」
 ぽっと頬を染めるとシャルロッテは恥ずかしそうにうつむいた。その仕草を見ると、胸の奥がちくりと痛む。
 ノイシュはシャルロッテを思ってしているのではないのに。全てはシャルロッテから秘密を聞き出す機会を得るために。そのために少女の純粋な気持ちを利用するのは、やはり気持ちのいいものではなかった。けれど、もう今更引き返せない。
 森林公園まで屋敷の馬車で移動すると、厩舎で早速馬に乗る準備に取りかかる。ノイシュは乗馬用にあつらえた服など持っていなかったが、ブーツだけはラルフに借りて、この数日でしっかり練習した通りに、馬に鞍と手綱を装着していく。
「まずは常歩(なみあし)から。俺が下で手綱をしっかり持ってるから、楽にしてて大丈夫だよ」
 馬上の人となったシャルロッテは、緊張の面持ちで馬のたてがみと手綱を一緒に掴んでいたが、少し歩いたところで余裕が出てきたのか周囲を見回すと嬉しそうな声を上げた。
「うわあ、すごい。馬の上はこんなに目線が高いんですね。世界が違って見えます」
 彼女の純粋な瞳に映る世界は、きっと煌めいているのだろうとノイシュは思う。そして、今まで彼女が生きてきた狭い世界を思うと、胸の奥がもどかしいような切ないような気持ちになる。どうにかして、彼女にもっといろんな世界を見せたくなる。
「走らせてみたいと思う?」
「ええ、それはもちろん! でも走るまでに練習がいりますよね」
「手っ取り早い方法があるよ」
 ノイシュは厩舎の方に戻ると、一度シャルロッテを降ろすと、鞍を付け替えた。
「これなら二人乗り出来るんだ。でも気をつけて。結構な振動と速さだから」
「それが乗馬の醍醐味じゃないですか」
 その言葉に二人同時に笑い、シャルロッテを先に鞍に乗せ、ノイシュも馬に跨ったところで、異変を察知したロジーナが近づいてきた。
「何をなさるおつもりですか? シャルロッテ様のお身体を考えて、散策する程度という話だったはずですけれど」
「でもせっかくだから、少しだけ走らせてみたいわ。大丈夫よ、少しだけだもの」
「危険です! もし、発作が起きたらどうなさるおつもりですか!?」
「そのときは、以前のようにノイシュさんにお屋敷まで運んでもらえばいいのよ。馬だからきっと早いわ」
 ノイシュの背後にいるシャルロッテが耳元で早く出してと囁く。軽い一蹴りで、栗毛の馬は颯爽と駆けだした。
「シャルロッテ様!」
 ロジーナの声を背後に聞きながら、ノイシュはこの五日間の成果を発揮できたことを誇らしく思っていた。

「しっかり掴まって」
 駈歩(かけあし)になった馬から振り落とされないよう、ノイシュが言うまでもなく、シャルロッテは必死に体にすがりついてきた。背中から伝わる温もりと少女らしい柔らかな肢体の感触に意識を奪われそうになるのを慌てて振り切る。
 森林公園には馬に乗ったまま散策できるコースがあるので、ノイシュは練習で通ったことがあるその道を勢いよく進んでいった。
「ノイシュさん、わたしの心臓の音、聞こえますか?」
「え?」
 あまり背中のシャルロッテを意識しないように努めていたノイシュだが、当の本人からそんなことを問われ、驚きつつも神経を集中させる。馬の速度は一定に落ち着き、もう振り落とされる心配はないというのに、ぎゅっと掴まっては体を寄せてくるシャルロッテ。密着した背中から、確かに彼女の鼓動を感じる。
「音じゃなくて、振動は感じる……かも」
 彼女の真意がわからず、そんな風に言葉を濁すと、シャルロッテは少しノイシュから身を離すと、自分の胸に手を当てた。
「こんなにどきどきしたのは初めてです。わたしの弱い心臓が、きっと今までの人生の中で一番働いているんだと思います」
「だ、大丈夫? すぐに戻ろうか?」
「いや、戻らないでください!」
 ノイシュの言葉を遮るように、シャルロッテは大きな声で叫んだ。そうしてノイシュの腰に回している腕に力を込め、背中に頬を寄せた。
「今なら心臓が止まってもいいって思えるくらいです」
「そんな物騒なこと言わないでくれよ……」
「ふふ、ごめんなさい……でも、本当にそのぐらい幸せなんです。ノイシュさんに出会わなければ、きっとこんな経験出来なかった」
 今、彼女の目には全てが新鮮に映っているのだろう。ノイシュにとって見慣れた世界が。
 シャルロッテの鼓動と同じ速度で自分の心臓も脈打ち出すのをノイシュは感じていた。やがて二つの鼓動が響き合うように、溶け合うように。体の奥から高鳴っていく。
「まだもう少し頑張れそう?」
 問いかけに小さく頷く気配を感じると、ノイシュは更に馬を走らせた。森林公園の奥に分け入ると、小さな山に続いている。街が見下ろせる場所まで来ると、ようやく馬を歩かせた。
「ここから見る朝焼けはきっと綺麗だと思う」
 シャルロッテは頷くと、ベルンシュタットの街並みを見つめながら呟いた。
「わたしは、こんな景色を知りませんでした。こんなに世界が美しいということを。誰かを想うだけで、毎日が輝くのだと……」
 抗いがたい何かに引かれるように、ノイシュは顔だけ振り返る。シャルロッテの澄んだ藍色の瞳は微かに潤み、自分だけを映していた。
「シャルロッテ……」
 思わずこぼれた名前に知らず熱がこもる。シャルロッテの手が、すがるようにノイシュの手に重ねられた。
「ノイシュさん、我が儘を承知で申し上げます。これからは毎日会いに来てくださいませんか? あなたに会えない日はとても寂しくて……心臓がいつもとは違う風に痛むんです」
 瞳を伏せたシャルロッテはそれきり黙ってしまう。さすがに自分の立場を理解しているのか、それ以上の気持ちは口にしないが、それでも彼女の心の内はノイシュにも充分に伝わった。本当なら今すぐこの頼りない身体を抱きしめて安心させてあげたいくらいだが、ノイシュに残された理性が冷徹に告げる。この恋は偽物だと。
 全ては、ただ与えられた任務のため。そのために出会ったのだ。偶然でも奇跡でもない。
「……ごめん、それは出来ないんだ」
 彼女の気をこちらに引くためなら、甘んじて受ければ良かったのかもしれない。けれど、そこに踏み込んでしまったら、ノイシュ自身がこの虚構と現実の区別がつかなくなりそうで──。
 シャルロッテはうつむいていた顔を上げた。涙こそ見せなかったが、彼女の落胆の大きさは、その表情を見れば明らかだった。
「俺、たくさん仕事をしないといけなくて。だから毎日は来れないんだ。恥ずかしい話なんだけど、うちの母親が病気でさ。働くことも出来ない上、実は隠してるけど借金もあって。だから、俺が働かなきゃいけないんだ」
 ノイシュの任務はシャルロッテからリンデンベルクの財宝の在処を聞き出すこと。嘘で同情を買い、金がないことを印象づければ、あるいは……。
 打算に閃く頭が次の瞬間、突然の出来事に全く働かなくなる。
 シャルロッテが、その澄んだ瞳から大粒の涙を零していたのだった。
「ご、ごめん。泣かせるほどひどい断り方をしたつもりはなかったんだけど……でも、毎日はどうしても無理なんだ」
 目の前で泣いている女の子を前に、ノイシュは慰めることも出来ず、一人慌てるばかりだ。シャルロッテは首を横に振った。
「……わたし、何も知らなくて……」
 流れる透明な滴をぬぐいもせずに、シャルロッテは自らの罪を戒めるように険しい顔をしていた。
「ノイシュさんがそんな大変な状況であるのに、何も知らずに勝手なことばかり言って……本当にごめんなさい」
「いや、そんなのいいんだよ。これは俺の家の事情だから」
「でも……そうだ! わたしの我が儘に付き合ってくださったんですもの、そのお礼としてお金を受け取ってください」
「……ごめん、それも受け取れないよ。このことを言い出せなかったのは、俺がお金を欲しがってると君に思われたくなかったからなんだ。君に会いに行くのはお金目当てだった……君が思わなくても、そう思う人もいるだろうし。だから、それだけは出来ないんだ」
 シャルロッテは息をのむと、それからゆっくりと首を振った。
「わたしは、何もわかっていなかったのですね」
「これからも、たまになら会いに行けるから。それで良ければ……友達でいてくれる?」
 シャルロッテはじっと何かを考えていたが、やがてゆっくりと頷いた。

 それからも、ノイシュとシャルロッテは以前と同じように会う日々が続いた。もう二度と、シャルロッテが毎日来て欲しいと願うことはなかったが、ノイシュを見つめる視線には、言葉に出来ない思いが込められているように感じられた。
 そして不思議なことに、乗馬の件では無茶をしたので、その日はこっぴどく怒られたものだが、後日そのことを言いがかりにロジーナがノイシュに何か言ってくるということはなかった。
 危うい均衡が保たれているこの日々にも、いつか終わりが訪れるのだろう。けれど、このまま何事も進展しなければ、シャルロッテと会い続けることが出来るのかもしれない。オスヴァルトも無理はするなと言った。ならばこのままこの関係を続けることも不可能ではないのかもしれない──ノイシュは、そんな風に思い始めていた。
 そんなある日のことだった。屋敷に行くと、神妙な顔をしたシャルロッテがノイシュを出迎えた。
 彼女はロジーナに席を外すように告げると、お嬢様想いの世話係は言われるまま静かに退室した。以前なら考えられなかったことだ。ノイシュとシャルロッテを二人きりにするなんて、彼女が許すはずもない。
 何かがおかしい。ノイシュはこの関係に生じたぎこちない歪みに気づくと、ごくりと唾を飲み込んだ。
「ノイシュさんに、大切なお話があるのです」
 シャルロッテは淡々と話し始めた。その瞳には、静かだが強い意志の光が宿っていた。
「言うべきか言わないでおくべきか……とても迷いました。でも、先日お話ししたときに、わたしは自分のことばかりで、ノイシュさんのことを考えていないと気づかされました。だから……よくよく考えてみたんです。どうすれば、あなたの力になれるのか」
 待っていた時が来たのかもしれない。けれどノイシュはちっとも嬉しくはなかった。もし彼女が秘密を打ち明けるのだとすれば、この日々はもう続かないということだ。そのことを心底残念がっている自分がいることに、正直驚いていた。
 しかしシャルロッテは、ノイシュが全く予想していなかった事実を告白した。
「わたしの命、もうあと残りわずかなんです」
「え……?」
 自分でもその瞬間、たいそう間抜けな顔をしていたと思う。けれど、あまりにも唐突すぎて、思考が追いつかなかった。
「余命はあと二ヶ月くらいだそうです」
 シャルロッテは淡々と告げた。まるで季節が移り変わるのは変えられないとでも言いたげに。
「そんな冗談、笑えないよ……」
「本当に、嘘であってくれれば、どれだけいいか……」
 シャルロッテのあきらめに似た眼差しに、背筋が凍った。
 彼女が死んでしまう? もう二度と会えないなんて、信じられない──信じたくない!
「あと少しの命で、わたしがノイシュさんに出来ることは何かと考えました。……正直に言うと、何も見つかりませんでした。本当にわたしは無力だと思い知る心地でした……」
 彼女の命は今や弱々しいものなのかもしれない。けれどその瞳には、死と向かい合い、覚悟を決めた者のみが持ち得る、強さが宿っていた。
「わたし自身では何も出来ません。でも、わたしはリンデンベルク家の娘です。ノイシュさんは知っていますか? リンデンベルクの財産がどこかに隠されているという話を。あれは本当です。直系の子孫にしか伝えられないその秘密の場所を、娘であるわたしは知っています。だから、わたしが死ぬ前にその秘密を教えます。どうか、ノイシュさんの役に立ててください」
「お金なんてどうでもいいんだ! それより、君が死んでしまうなんて……そんなの信じられるわけないじゃないか……」
 そのときノイシュは本気で任務のことを忘れていた。ようやく聞き出せそうな秘密など、もはやどうでも良かった。
「本当に、ノイシュさんは優しいんですね。わたしの精一杯の思いつきも、やはりあなたを喜ばせることは出来なかった……。それでも、あなたにそう言ってもらえるのが嬉しいだなんて、本当に勝手な話ですよね」
「心臓が悪いのか?」
 シャルロッテは小さく頷いた。そっと自分の左胸に手を当てる。
「本当は、初めからわかっていたんです。だから最後の思い出に、普通の学校に通ってみたくて。あ、でも最近調子がいいのは本当ですよ。ほら、蝋燭の火も消える前に大きく燃えるでしょう?」
「……」
「ロジーナにも、先日ついに伝えました。残り少ない日々をわたしの好きなように過ごさせてくれて……」
 こらえきれない涙が頬を伝っていく。どうして世界は不公平に出来ているのだろう。彼女が短命な理由を誰に聞けば教えてくれるのだろう。
「どこかに腕のいい医者がいるかもしれない。なんとか治らないのか?」
「お父様は出来る限りの手を尽くしてくださいました。だから、きっと今まで生きて来れたんです……ノイシュさんに出会えるまで」
 微笑みが儚すぎて、ノイシュはまともにシャルロッテの顔が見れなかった。
「お願いします。どうか、わたしの最後の我が儘を聞いてください。ノイシュさんはお金なんてもらっても嬉しくないかもしれません。でも、いつか本当に困ったとき、役に立つかもしれません。だから、どうか……」
 そのとき、ノイシュの中に一つの考えが浮かんだ。ひょっとしたら、彼女を救えるのかもしれない。
 心を決めると、ノイシュはシャルロッテの手を強く握りしめ、大きく頷いて見せた。

 リンデンベルク家の隠し財産の在処を直接会って教えたい。ただ、誰にも知られたくないからノイシュ一人で約束の場所に来て欲しい──そうシャルロッテが言って、指定した場所は、先日二人で馬に乗ってきた森林公園の奥にある小さな山の上だった。しかも時刻は夜半。シャルロッテがこの時間に来ることが難しいのではないかと訊ねたが、彼女はロジーナに手伝ってもらうからと、頑なに時間と場所を譲らなかった。
 実は困っていたのはノイシュの方だった。シャルロッテが指定した日時は、〈アーベントヴォルフ〉の定例会があるのだ。この日ばかりは全員が集い、オスヴァルトと共に過ごさなければいけなかった。ノイシュは相当渋ったのだが、シャルロッテはこの日でないといけないと譲らなかった。リンデンベルク家の財宝の在処がわかるなら、オスヴァルトも許してくれるだろうと、ノイシュもそれを受け入れた。事の次第を話すと、オスヴァルトは上機嫌になった。このまま上手くいけば、ノイシュの願いも聞き入れてくれるだろう。
〈アーベントヴォルフ〉の闇の荷運びをしていたノイシュは、人間の臓器を秘密裏に売りさばいている闇の商人がいることを知っていた。シャルロッテの心臓が弱いのなら、健康な心臓と交換すれば、あるいは──。そんなことをして、彼女が喜ぶか、はたまた受け入れるかどうかはわからない。それでも、どうしても彼女を死なせたくはないのだ。
 ようやく約束の場所が見えてきた。確かめなくてもわかる。今日は半月だ。幾分頼りない月明かりが照らす宵闇に、シャルロッテの姿はまだ見えない。ノイシュは大きく息を吐き出した。決意を固める。何があっても、彼女を救ってみせるのだ。
 約束の刻限を過ぎても、シャルロッテはいっこうに姿を見せなかった。やはりこの場所まで来ることは病弱な彼女には難しかったのかもしれない。それでもノイシュは辛抱強く待った。入れ違いになり、ノイシュが来なかったと誤解でも彼女を悲しませたくなかったからだ。
 しかし待てども彼女はやってこない。もう真夜中だ。いくらなんでも遅すぎる。きっと屋敷を抜け出せなかったか、あるいは来る途中でまた発作が──。そんな想像が頭を巡り、いてもたってもいらなくなったノイシュが、元来た道を引き返そうとしたそのときだった。道の先に、人影が見えた。
 ゆっくりとこちらに近づいてくるその人物が月明かりに照らされる。ノイシュは息をのんだ。
 背格好も髪も瞳の色も顔かたちも、シャルロッテで間違いないと思うのに、雰囲気が全く違っていた。いつもおさげにしていた髪はほどかれ、腰までの長い銀の髪が月明かりに反射して輝いている。着ている服も、襟の詰まったおしとやかなワンピースではなく、身体にぴったりとした動きやすそうなものだった。そして深い藍色の瞳が、凛とした光を湛え、全てを見透かすように、こちらを見つめている。
「……シャルロッテ?」
 ノイシュの問いかけに、彼女は微笑みを浮かべる。愛らしいというより、妖艶と言った方がぴったりくる笑みだった。
「約束の時間を過ぎても律儀に待っていてくれるなんて、あなたは本当にいい人ね」
 随分大人びた口調ではあったが、声はシャルロッテのものに違いなかった。
「君は、一体……?」
 その問いかけに、彼女はすぐさまはきはきと答えた。
「エルナ・クラルヴァイン──あなたたちが秘密捜査官と呼ぶ人間が集まった特別捜査局〈レーヴェンツァーン〉の一員よ。たった今、〈アーベントヴォルフ〉の全構成員の捕縛に成功したところ。──あなたを除いてね」
 ノイシュは言葉を失うしかなかった。あれほど気をつけろと言われていた秘密捜査官に、まんまと出し抜かれてしまったらしい。いや、それよりも──。
「君は初めからそのつもりで……? いや、でもリンデンベルク家がこの街に引っ越してきたのは偶然で──それに、俺が〈アーベントヴォルフ〉の一員だなんて、すぐにわからなかったはず……」
「偶然だと思う? 私たちはずっとあなたたちのような組織を罠にかける機会を伺っていた。そうして引っかかったのがあなたの組織だった。全ては偶然などではなかったのよ」
 ノイシュはようやくぴんときた。彼女は全員を捕らえたと言った。
「それで、定例会の日を選んだ」
「そう、一網打尽に出来る機会を」
「けれど、定例会には外部の人間が入れないようになっている。もし力づくで入ろうとしたなら、その隙に幹部だけでも逃げているはずだ」
「きちんと正面から入ったのよ。暗号を言って」
「なっ……どうしてそれを?」
「あなたが教えてくれたのよ」
 ノイシュは耳を疑った。シャルロッテから秘密を探っているはずだったのに、逆に自分が探られていたなどと全く気づきもしなかった。
「合い言葉は『トイフェルテーテン』。私に請われてあなたがお酒の名前を言った時、おかしいと思ったの。ひとつだけいやに強いお酒が混じっているって。調べてみるとあなたはそもそもお酒に強くない。それなのに、なぜあの場であの酒を挙げたのか。お酒を飲まないあなたはあまりお酒の種類を知らない。だからつい知っているあの名前を口にしてしまった」
 悔しいが彼女の言うとおりだった。
「……定例会の日はどうしてわかったんだ?」
「あなたの行動から推測できた。あなたが私に会いに来る日で、どうしても来ない日があった。〈狼の月夜〉の次の日はあなたは決して屋敷に来なかった。この日は全員が集まって仕事の報告をしたあとに、朝まで飲み明かすのでしょう? その次の日、あなたは飲まないとはいえ、同じ場所にいたために染みついた酒臭さのまま来ることが出来なかったはずよ。日を割り出すのは簡単だった」
「完敗だな……それで、あと一人、俺を捕まえれば君の仕事は終わりってわけだ」
「そうね、あとはあなただけ」
 ノイシュの頬を夜風が撫でていく。恐れていた事態だというのに、心は驚くほど落ち着いていた。シャルロッテが死なずに済んだのなら、それが何よりだと思うからだろうか。けれど、目の前の彼女はシャルロッテではない。そうわかっているのに、なぜか彼女が余命二ヶ月でなかったと思うと心から安堵するのだ。
「接していてわかったけれど、あなたはあの組織にいるのに似つかわしくない人だわ」
「まあ、間違って入ってしまったようなものだから。もとはといえば、君も会った俺の親友ラルフのせいなんだ。うだつの上がらない毎日に飽き飽きしてた学生時代、あいつは俺が酒の苦手なことを知っている上で言ったんだ。『強い酒でも飲めば世界が違って見えるかもしれない』って。俺も真に受けて、図書室でとにかく強い酒と思って調べて、それを酒場で注文したら……急に知らない男に酒場の奥に連れて行かれたんだ。どうやら〈アーベントヴォルフ〉が闇の商人とその酒場で待ち合わせしてたらしいんだけど、それと間違えられたらしくて。けど、その闇の商人が実は囮捜査を企ててた秘密捜査官だったってあとでわかって。それを図らずも阻止した俺は一躍救世主ともてはやされ……組織を抜け出すこともできず、こうして組織の言いなりになってる」
「言い訳のつもりかしら? けれど、あなたが詐欺組織の片棒を担いでいたのは事実よ。あなただけ見逃すわけにはいかない」
 どこまでも冷徹な口調だった。彼女のことは何も知らないが、きっと組織でもやり手の捜査官なのだろう。
「そうだろうね。いつかはこんな日が来るんじゃないかって覚悟していたけど……ところで、君が今まで俺の前で話したことなんかは全て演技なんだよね? だとしたら感心するよ。迫真の演技だった」
「お褒めにあずかり光栄だわ。でも当然よ。小さい頃からそう教育されてきたもの。それに……深窓の令嬢を演じる機会なんてそうそうないもの。そのものになりきった上で、心から楽しんで毎日過ごしたわ」
「恐れ入るよ……それで本当に十六歳?」
「二つほど上だけど……問題はなかったでしょう?」
 彼女が特別なのか、〈レーヴェンツァーン〉の捜査官は皆こうなのか。真実を知るのが恐ろしくてノイシュはそこに触れるのはやめた。
「そういえば、お世話係の子もそちら側の人間だったんだね。いや、そもそも屋敷ぐるみというべきか……」
「いいえ、ロジーナは知らなかったわ。私が偽物のシャルロッテであることも。この街に来てからお世話係になった子だから」
「え、どうしてそんな……」
「敵を欺くにはまず味方から。……常套手段でしょう?」
「本当に……なんて言っていいか」
 これから人生の底なし沼に落ちようとしているというのに、ノイシュは気楽な口調でそう言うと、降参という風に両手を挙げて見せた。しかしふと疑問が残る。完璧すぎるはずなのに、彼らは大きなミスを犯している。
「でも、どうして俺だけここに呼び出したりしたんだ? 定例会の日がわかっているなら、俺が参加している時に一緒に捕まえれば手間はない。そもそも財産の在処を教えるつもりはないのだから、ここに呼び出す意味はないはずだ」
「あら、気づいてしまった?」
 シャルロッテ──いや、エルナは理知的な瞳にいたずらっぽい光を閃かせた。
「確かにあなたは悪い組織にいるけど、悪人ではないわ。それは今回の件を通して私がきちんと立証できることよ。けれど、無罪放免とはいかない。あなたが組織に入った状況と今回の件を鑑みて、あなたに更正の余地があると判断しました。私があなたの更正を担当します」
「え?」
「社会のため、役に立ってもらいます。〈レーヴェンツァーン〉でね」
「捕まらなくていいのか?」
「あなたがどうしても捕まえて欲しいならそうするけど……病気がちで借金持ちのお母さんを助けてあげたいのでしょう?」
 彼女は意味ありげに片目をつぶって見せた。これがノイシュの嘘だとわかっていて、あえてそう後押ししているのだろう。
「二人で過ごしたあの日々をあなたは全て演技だと言った。でもそうかしら? あなたと一緒に感じたあの日の胸の高鳴りは、果たして偽物だったのかしら」
 エルナの瞳はシャルロッテと違い、広い世界を知っている。けれど、彼女はあの日々の中、彼女の知らなかった世界を見つけてしまったのかもしれない。
 ノイシュはあまりにもたくさんの情報が流れ込んで混乱しがちな頭を振ると、正面からエルナを見つめた。
 そうだ、嘘なんかじゃない。エルナ本人は、大富豪の一人娘で新しい世界に焦がれる病弱なお嬢様ではなかったけれど、ノイシュが助けたいと思ったのは、抗いがたい魅力に惹かれたのは、彼女に他ならないのだから。
「……偽物なんかじゃないよ。あの日の君の鼓動を、俺は今でもはっきりと覚えてる」
 その言葉を聞くなり、エルナは少し恥ずかしそうに頬を染めて目をそらした。そんな仕草がシャルロッテと重なり、あのときは演技だったとはいえ、やはりその所作に彼女らしさが滲み出ている。
「では、不出来な人間ですが、更正するまで、つきっきりで、しっかりご指導よろしくお願いします」
「言っておくけど厳しいわよ。よそ見なんてしたら、容赦しないから」
 そんな言葉も彼女の本心を知った今なら可愛らしく思える。
 月明かりが醸し出す幻想的な空気に後押しされるように、二人はどちらからともなく抱き合った。
 お互いが感じたあの日の胸の高鳴りが、間違いでないことを確かめるために──。


(完)
 


読了ありがとうございました。

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