駆け落ちは青い月の夜に


第一話 駆け落ちは計画的に

 

「ねえ、わたしと一緒に駆け落ちして欲しいの」
 アニエスにしてみれば精一杯の勇気を出して言った言葉だったというのに、声を掛けられた相手は散歩に誘われたくらいの気安さで返事を寄越してきた。
「しろというならしますけど……今すぐですか?」
 読みかけの本から顔を上げて問い返すその表情を見れば、とりあえず今はこの本を読み終えたいのだと主張していることは明らかだった。
「今すぐとは言わないけど、近日中にはお願いしたいわ。……それより、理由も訊かずに了承する?」
「あなたの頼みを私が断れるわけがないじゃないですか」
 台詞だけ聞けば、甘いときめきに心躍ってもいいはずだ。けれど、彼の言っていることがそういう意味ではないと何より知っているのはアニエス自身だった。
 一つため息をついて、アニエスは描きかけのキャンバスに視線を戻す。そこにはソファに腰掛け黙々と本を読み続けている目の前の男が描かれている。年齢は二十二歳。肩まである黒髪を頭の後ろで一つに結っている理知的な面差しの青年。緑色の瞳は、彼の知識の一端を覗かせる深い思慮で満ちている。彼こそがアニエスの家庭教師であり、目下片想い中である青年──セルジュ・フランセルだった。
 セルジュはアニエスの家庭教師を務めていて、言語学や算術や歴史を教えてくれる。セルジュの他にも教師はいて、絵画に関しては彼の専門分野ではないはずだった。それでも、アニエスはセルジュと一緒にいたいばかりに彼を絵のモデルにしては何とか彼の気を引こうとこつこつ頑張っている。しかしながら必死の努力にも関わらず、彼に思いが通じることはないようだった。少しでも動揺させようとして言った『駆け落ち』の言葉も、セルジュには散歩程度の意味合いにしか聞こえていないようだ。
「ねえ、理由を知りたくないの?」
「訊いたら教えてくれるんですか?」
「当たり前でしょ。あなたにお願いしてるんだから」
「では、どうぞ」
 会話の間も視線をこちらに向けもせず、頁をめくる手を休めもしないで彼は淡々としている。アニエスは無駄な虚勢を張っている自分に段々虚しくなってきた。
「わたしだって夢見る乙女なの。わたしに好きな人が出来て、将来一緒になりたいと思う人が出来たとしてよ。お父様が認めてくれない可能性は高いわ。だから、駆け落ちの練習をしたいの。でも、そんなこと知られたら怒られるのはわかっているもの。だから、誘拐された振りをして屋敷を出るの。ね、良い考えでしょ?」
 その言葉に、ようやくセルジュは頁をめくる手を止めた。
「まあ、言いたいことはわかりましたが……どうして私なんですか?」
「あなたの頭をもってすれば全て上手くいきそうだからよ」
 それはもちろん本当のことではあるけれど、それだけでないことに、いい加減気付いて欲しい。
「ああ、そういうことですか」
 セルジュは頷くと、納得したようにもう一度読みかけの本に意識を戻した。王国でも五本の指に入ると言われている博識家であったって、目の前のいたいけな少女の恋心に気づきもしないだなんて、本当にがっかりする。
 恨めしい気持ちで彼を眺めていると、セルジュはふと思い出したように顔を上げた。
「とりあえず一週間くらい待ってもらえますか? まだバルデュスの詩集の三十八巻目なんです。全六十巻読破したら、すぐに支度しますから」

 アニエス・ベルリオーズ、十六歳。
 ここオリオール王国でも名の知れた有力貴族であるベルリオーズ家の一人娘。金の巻き毛に空色の瞳をした可憐な乙女。父であるデュクロは、そんな一人娘をとにかく愛していた。危険が多いからと、屋敷の外に出すことをしぶる反面、最高の教養を身につけさせるための手間暇と資金は惜しまなかった。そしてそんな彼が見つけたのが、通例では卒業するのに八年はかかるという王立学術院をわずか五年で卒業し、記憶力とあらゆる知識と発想力に長けた博識家──セルジュ・フランセルだったのだ。
 アニエスの家庭教師としてデュクロがセルジュに要求したことはみっつ。
 ひとつ、アニエス以外の家庭教師の仕事を引き受けないこと。
 ふたつ、アニエスの質問には必ず答えること。
 みっつ、アニエスに指一本触れないこと。
 普通ならこのような身勝手すぎる要求には応えたくないものだと思われた。少なからず、デュクロは同様の申し出を他の著名な学者や教師に行っていたが、どれもあっさり断られていたのだから。しかしながら、セルジュはこの申し出を受け入れた。それには、大きなはっきりとした理由があったのだ。

 アニエスは広大な屋敷の中にあってなお大きい建物を一度見上げた。アニエスが小さい時からこの建物はあったが、以後増改築を繰り返し、ますます大きくなったようだった。
 先程のセルジュの態度を思い出しては、何度目ともつかないため息がこぼれる。
 今から三年前、セルジュはアニエスの家庭教師となった。以後、彼は何の不平も漏らさずアニエスに勉学を教えてくれていた。三年もの月日があれば相手のことを知り、少なからず何か愛着のようなものがお互いに生まれても良いはずだ。なのに、彼との距離は三年前から全く縮まっていないように思える。平民出の彼は丁寧な言葉遣いを崩さないし、アニエスの質問にはどんな問いであれ、必ず答えてくれる。けれど、それは彼にとっての義務でしかないのだ。少なくとも、駆け落ちして欲しいという女の子を前に、あんな答を返す理由はそれぐらいしか思い当たらない。
 セルジュがベルリオーズ家に留まっている理由が、この建物の中にあるのだとアニエスは知っていた。
 アニエスは慣れた足取りで本棚が林立する迷宮のような道を歩いていく。アニエスが行くところはいつも決まっている。幻想的な小説が並ぶあの一角は、もう何度足を運んだかしれない。一度はセルジュに触発されて哲学の本を読んでみようと思い立ったのだが、難しすぎて熱が出そうだった。以来、学術書が並ぶ南東の一角には近寄らないようにしている。
「わたしにだってわかってるのよ。セルジュはオリオール王国一番の図書館を持つベルリオーズ家に滞在することが都合が良いんだって」
 アニエスの家庭教師など彼にとってはついでのようなものなのだ。一日中本を読んでいたい彼には、望めばどんどん増える蔵書を持つ図書館など夢の楽園に違いない。こちらの要求をおとなしく呑んでくれたセルジュに、デュクロも蔵書を増やす資金を惜しまなかった。気がつけば、王国一になるほどの図書館が屋敷内に出来上がっていたのだった。
 いつもの場所から、アニエスは一つの本を取り出した。丁寧な装丁の表紙をめくると、何度読み返したかしれないのにいつも胸が高鳴る。大好きな、本当に大好きな物語。妖精の国のお姫様が、人間の青年と恋に落ちる物語。決して結ばれないはずの二人が、全てを乗り越えて愛を誓い合うのだ。幸せな恋物語。でも、アニエスがこの本を好きなのはそれ以外にも理由があった。
 それは三年前、ちょうどセルジュがアニエスの家庭教師になった頃のことだった。
 絵画の教師は、王国でも評判の画家だった。アニエスは青い月と森の絵を描いた。自分ではかなり気に入っていたけれど、その絵を見た画家はそっけない一言だけをアニエスに漏らした。
「独創的だが、今の作風では好かれない。月が月だとわからなくては、人々は理解できない」
 その画家は世間一般の評価を基準にアニエスの絵を判断していた。けれど、別にこの絵を売りに出す気などアニエスにはないのだ。今思えば、ただ有名なだけのこの画家は、画家志望以外の絵画の教師には向いてなどいなかったのだ。
 教師が去った後、アニエスはなんとなくしょんぼりしたままその絵を眺めていた。こんなもの捨ててしまおうと、セルジュに処分を頼むはずだった。だが、その絵を見た彼は意外なことを口にしたのだ。
「ああ、リシュリューの幻想小説の一場面ですね。青い月は、人間界と妖精界の境界が曖昧になった象徴として、またありえない奇跡の象徴としても、とても美しいモチーフですね。彼の晩年の作品の中でもとりわけ繊細な文章で、私も好きです」
 画家が流行らないと一蹴したあの絵を、セルジュは一目見ただけでアニエスが何を思って描いたのか言い当ててしまったのだ。
 数いるアニエスの教師達の中には、下手だろうがとにかく誉める者、アニエスの機嫌だけを取るのに必死な者、そして画家のように自分がやってきたようにしか教えられない者など、様々な者達がいた。けれどセルジュは、愛想は全くなかったけれど、何かを強要することもなく、いつもアニエスの気持ちを尊重してくれていたように思える。
 その出来事をきっかけに、アニエスは三年間、恋の蕾を育ててきたのだった。
 時々アニエスの心を見透かすようなことを言うのに、肝心の恋心には全く気付かない。それに父の言いつけを守ってか、アニエスは本当に指一本触れられてもいない。とにかくこのままでは進展がないと、今度の駆け落ちもどきで、彼に恋心を気付かせてみせるのだ。
 大好きな本をぎゅっと胸に抱きしめる。屋敷を出ても、これだけは肌身離さず持っておくのだ。きっとこれが、二人を繋ぐ唯一の絆なのだから。

「アニエス様、少し考えてみたのですが」
 翌日、歴史の授業の最中に、セルジュは前触れもなくそう切り出した。勉学の授業中は二人きりなので、秘密の相談がし放題だった。セルジュが家庭教師になった当初は必ずお目付役の人間が部屋についたものだが、思い返すと三年間で父の監視の目も少し緩んだ気がする。
「誘拐に見せかけるのはどうかと思います」
「あら、どうして?」
 既に屋敷を出る支度を調えつつあったアニエスは不満げに口を尖らせた。
「私はあなたとともにお屋敷を抜け出さなくてはいけないのでしょう? だとすれば、どう考えても私が犯人だと思われるじゃないですか。そんなことになればデュクロ様に八つ裂きにされます。万が一生き延びてもお屋敷にいられなくなります。それは困ります」
「そこを上手くやるのがあなたの役目じゃないの?」
「まあそうですけど。もちろんいろいろ考えてはみました。けれど、誘拐というのはよくありません。無駄にデュクロ様を刺激します。犯人を八つ裂きにしなければ気が済まなくなるに違いありません」
 彼なりに三年間付き合っただけはあるのだろう。デュクロのことを知り尽くしている。確かに、愛娘が誘拐されたなどと知ったら、半狂乱になるに違いない。
「じゃあ、やめた方がいいってこと?」
「いえ、誘拐ではなく、家出ということにしてはいかがでしょう。これならば、アニエス様の意志によって行われたということで、デュクロ様の怒りの矛先が変わってくるでしょうから」
 なるほど、確かに一理ある。そして、家出するくらいの理由もアニエスは充分持ち合わせていた。父には、今まで言えなかったが言いたいことが山ほどあるのだから。
「わかったわ。あなたが言うならそうする。書き置きでも残しておけばいいかしら」
「ええ、そうですね。それから、私には出立前に何か外出のご用命を。一緒にいなくなっては不自然かと思いますので。そうですね……アニエス様のお好みの本を探す旅にでも出ましょうか。そうすることで、あなたと過ごす時間が長い私をよそにやって、あなたはまんまと家出できるという筋書きにもなりますから」
「ええ、悪くないわ。それで、わたしが家出した時、ちゃんとセルジュは一緒に来てくれるのよね?」
 そのままどこかへ行ってしまうのではないかという不安が顔に出ていたのだろう。セルジュは相変わらず愛想笑いの一つも浮かべはしなかったが、真剣な顔で頷いた。
「もちろんです。駆け落ち相手がいなくては、練習にならないでしょう?」

 

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