第一話 駆け落ちは計画的に

 

 物語の始まりに似つかわしい月が輝く夜。アニエスは予定通り屋敷を抜け出した。
 寝室には書き置きを残してある。ほとんど屋敷の外に出たことがないアニエスが、外の世界を知るために一人屋敷を抜け出す──父だってもちろん心配はするに違いないが、その動機を疑いはしないだろう。
 小さな鞄を一つ抱えて、アニエスは寝室を抜け出した。バルコニーから縄梯子をぶらさげ、ゆっくりと降りていく。広い庭園を抜け、セルジュがいなくなってから暇になった時間を利用して準備した壁の抜け穴をくぐると、あっさりと屋敷の外へ出られた。
「案外、簡単なものね」
 拍子抜けしてアニエスは呟いた。おそらく父は、娘が家出をするかもしれないという発想がないのだ。外部からの侵入者への警戒は強いが、内部から脱出されることはおそらく想定していない。
 アニエスが屋敷の外へ出たことは本当に数えるほどしかなかった。何度もせがんだ末にお芝居に連れて行ってもらった時と、移動遊園地が来た時ぐらいだったろうか。それも馬車で移動したから、街を歩くことなどアニエスにとってほとんど初めてだった。
 何度も地図で確認したセルジュとの待ち合わせの場所。アニエスの心臓は、いろいろな思いのせいで激しく跳ね回っていた。大好きな人と二人きりで旅をする高揚感。けれど、本当に彼は来てくれるのかという不安感。それでも、今、何かが始まるのだと強く感じていた。
 最後の角を曲がった時、大時計の前に小さな馬車が停まっていた。その前に人影が見える。確かにセルジュだ。
「セルジュ!」
 嬉しさのあまり、思わず駆け寄ったアニエスに気付くと、彼は珍しく慌てたような顔をした。
「お静かに、アニエス様。今から家出しようという方が目立ってはいけませんよ。そもそも私はここにいるはずのない人間ですから」
「家出じゃないわ。駆け落ちよ」
 むっとして訂正すると、セルジュは「そうでしたね」と小さく口の中で呟いた。
「とにかく馬車の中へ。今宵の宿は手配してあります」
 そう言ってセルジュの手がこちらに差し出されたので、アニエスは驚いた。
「……手、貸してくれるの?」
 馬車に乗りこむ女性に手を貸すというのは紳士として当然の行いではある。けれど、一度も破ったことのないデュクロとの約束を、彼が自ら破るような素振りをするなど、アニエスには考えられなかった。
「必要なければ結構ですが」
「だって、お父様との約束は?」
 セルジュはじっとアニエスを見つめた。深い緑色の瞳に見つめられ、アニエスはどきりとした。
「デュクロ様との約束は、あくまで屋敷内でのことに過ぎません。誓約書の五行目にもそう記されていました。ですので、一歩外へ出れば関係ありません。……それに、あなたのおそばに私しかいないのに、全く触れもせずお世話するのは非常に困難だと思いますが。……もちろん、あなたがそれを望まないのであれば、また話は変わってきますが」
 アニエスは慌てて首を振った。せっかくの機会をみすみす逃すわけにはいかない。何よりの目的は、彼に自分の恋心を気付かせることなのだから。
「わ、わたしは全然構わないのよ。大体お父様は、わたしの意見も聞かないで勝手なことばかり決めるんだから。それに、わたしは駆け落ちの練習をしたいの。駆け落ち相手に触らないなんて不自然だもの」
 言葉と共に勢いをつけて、セルジュの手のひらに自分の手を預けた。ただ触れあっただけの指先から微かな温もりが伝わり、それだけでアニエスはこの上なく幸せだった。思い切ってぎゅっと握りしめてみたが、セルジュは何も言わず、ただ静かにアニエスが馬車に乗るのを手伝ってくれた。
 二人が乗り込むと、馬車は静かに夜の街を走り始めた。どこに行くのか、全てセルジュに任せきりのアニエスは何も知らない。それでも不思議と胸にあるのは安心感だった。
「あなたにお渡ししておくものがあります」
 目の前に現れたのは、小さな袋だった。掌に乗るくらいの麻でできた布に細長い紐がついている。
「なあに、これ」
「お守りのようなものです。常に身につけておいてください。何か困ったことが起こった時、そばにいる人に渡してください」
 アニエスは袋を受け取ると、セルジュに言われるまま首から提げた。あまり見栄えは良くないが、普段は服の下に身につけておけば問題もなさそうだ。
 用件は済んだと思ったのか、それきりセルジュは黙り込んでしまった。アニエスは先程の温もりが恋しくなって、思い切って声を上げた。
「か、駆け落ちしてすぐの恋人同士は、不安に苛まれながらも、お互いのことを想いあっていると思うの」
 そう言うなり、アニエスは座席に投げ出されていたセルジュの手を握りしめた。こうなれば、この状況を徹底的に利用するしかない。
「……そうですね」
 セルジュはそれだけ言うと、ぼんやりとした様子で窓の外に目をやった。
 本当に、ここまでしても何も感づかないのだろうか。そっと彼の横顔を覗き見たアニエスは驚いた。いつも真面目な顔しかしていないセルジュが微かに笑っているように見えたのだ。アニエスが慌てて瞬きをしてもう一度見直すと、その時には、もういつもの顔に戻っていた。
 ひょっとするとそれは、月明かりが見せた幻だったのかもしれない。

 翌朝、小さな姿見に自分を映し、ぎくしゃくとした手つきでアニエスは身支度を調えていた。出来るだけ自分一人で着られるような衣装を持ってきたつもりだったけれど、やはり一人で全てを調えるのは初めてだったので、どうにも仕上がりがぎこちない。でも、だからといってセルジュの手を借りるのは何となく癪だった。
 昨晩、セルジュが手配したという宿に着いた時、まさか同室だったらどうしようと一人どきどきしていたアニエスだったが、さすがにそこはセルジュも心得ているようだった。残念なような安心したような、よくわからない感情を抱えたまま、アニエスは一人、見慣れない部屋で眠りについた。
「アニエス様、お支度は調いましたか?」
 セルジュの声が扉の向こうから聞こえてきたので、アニエスは慌てて最後の確認を済ませ、扉を開けた。
「ええ、一応。でも、変じゃないかしら?」
 姿を現したアニエスのその問いに、セルジュは一度じっと全身を検分するように見つめると、首元に手を伸ばした。
「リボンが歪んでいます」
 当然のように綺麗に結びなおされ、アニエスは気恥ずかしさのあまりうつむいた。恋人同士に見えなくても、確実に以前よりは親密な関係になった気がする。
「朝食は部屋にご用意しました。どうぞこちらへ」
 アニエスは言われるまま、セルジュの部屋に移動する。焼きたてのパンの香ばしい匂いが鼻腔をくすぐる。
「それで。これからどうなさるんですか?」
 ゆっくりと食事を口に運んでいたアニエスに、向かい合って座っているセルジュが淡々と問いかけてきた。
「駆け落ちの練習だもの。上手く逃げのびるの。お父様もさすがにわたしがいなくなったことに気付いているはずだもの」
 あの父のことだ。屋敷の人手を総動員してでも血眼になって愛娘を捜し出すことだろう。
「そうでしょうね。恐ろしい形相で今頃探していらっしゃるに違いありません。……でも、いくら逃げ回ったところで、いつかは見つかってしまうと思いますが」
 セルジュは初めからわかっているのだ。この日々がずっと続くはずないことを。
「それはそうかもしれないけど……でも、お父様にだって思い知ってもらわないといけないわ」
「何を、ですか?」
「だから、どうしてわたしが家出というか、駆け落ちの練習をしたいかってこと」
「デュクロ様が認めてくれなかった時のためじゃないんですか?」
 アニエスは一度息を吸い込むと、ゆっくりと吐き出した。セルジュにだってしっかり伝えておかなければいけないことだ。
「それはもちろんそうだけど。お父様はね、わたしが結婚する相手は、わたしを護れるくらい強い人じゃないといけないって勝手に決めているの。でも、もし好きになった人がそうじゃなかったら? そんなの困るわ。大事なのはお父様の自己満足じゃなくて、わたしの気持ちだもの」
 アニエスを大切に思うあまり、父は屋敷から娘を一歩も出さず、しまいには結婚相手を護衛か何かのように思っているようだった。そして──残念ながら、セルジュはどう考えてもアニエスはおろか、自分の身さえ守れるのか怪しいくらい腕っぷしの方はからっきしだった。
「まあ、デュクロ様の考えていることはわからないでもないですが」
「どうして? 大事なのは武術の腕前じゃなくて、相手を想う心じゃないの? 王国一の剣豪だとしても、わたしの気持ちを理解してくれない人なんて絶対嫌よ」
 アニエスは頬を膨らませた。セルジュまでそんなことを言い出すなんて本当にがっかりする。
「でも、今からそんなことを心配していても仕方ないじゃないですか。ひょっとしたら、そういう強い人を好きになるかもしれないでしょう。それとも、もう既に誰か心に決めた人がいるんですか?」
「そうよ、いるわよ!」
 本当にこの男はこの期に及んでこんなことを聞いてくるのだ。アニエスは腹が立ったので、怒鳴りつけるようにそう返した。
 セルジュはその返答に特に驚いた風もなく冷静に提案する。
「では、その人に武術でも学んでもらったらどうですか? デュクロ様を説得するより簡単かもしれませんよ」
「じゃあ、セルジュだったらどう思う? 今までやったことのない武術を学んでほしいってお願いして、あっさり頷く?」
「私は嫌ですよ。そんな面倒かつ疲れること。本を読む時間を奪われることが何よりも苦痛です」
「……わたしの想い人も、きっと同じことを言うと思うわ」
「そうですか。では、仕方ないので他の方法を考えましょうか」
 セルジュは実に面倒くさそうに、そう呟いた。

「うわあ、すごいのね!」
 通りには多種多様な商店が並び、広場には市が立っている。初めて見るそれらの光景に、アニエスは目を輝かせた。朝食後、二人で街を散策することになったのだ。
「今日は市が立つ日のようですね」
「ねえ、少し覗いていってもいい?」
「構いませんが……」
 セルジュはアニエスの真正面に立つと、つばの広い帽子をさらに念入りに深く被らせた。
「あまりお顔が見えないよう注意してください」
「わ、わかったわ……」
 どうにもセルジュはアニエスに街を歩かせることを快く思っていないようだった。それでも、アニエスの強い要望により、出来るだけ目立たないということを条件に願いは果たされたのだ。
 露店を覗いていくと、アクセサリーを取り扱っている店に行き着き、アニエスは足を止めた。
「素敵……」
 いつも父が贈ってくれるものに比べれば、はっきり言って目の前の品々は安物に違いない。けれど、その中にアニエスの目を惹く指輪があったのだ。あの物語に出てくる、人間の青年が妖精のお姫様に贈り、永久の愛を誓った指輪に似ている。
 銀細工の細い指輪は、青い月を思い起こす円いサファイアがはめ込まれ、精緻な細工が施されていた。指輪の円環はそれだけで永遠の愛を象徴している。
「何かご所望ですか?」
 セルジュに問われ、指輪に見入っていたアニエスは急いで首を振った。きっとアニエスが望めばセルジュは当然のように目の前の指輪を与えてくれるだろう。でも、そんなことに何の意味があるだろう。彼の気持ちが伴っていない指輪をもらっても虚しいだけだ。
「いいの、見てただけだから。それより行きたいところがあるの」
 アニエスは思いを振り切るように、指輪に背を向けた。

 

一つ前に戻る目次に戻るひとつ進む

SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送