第一話 駆け落ちは計画的に

 

「行きたいところと言うのはここですか」
「そうよ。大事でしょう?」
 次に二人が訪れたのは、街から外れた場所にある古い教会だった。老朽化のためか既に使われなくなった建物に、二人の他に人の気配はない。
「だって、駆け落ちするってことは世間から認められていないってことよ。それでも、二人はここで永遠の愛を誓うのよ」
 うっとりとアニエスは呟くと、ところどころガラスが割れているステンドグラスを眩しそうに見上げた。むしろこれくらいの方が乙女の夢を満たしてくれると言いたげに。
「それじゃあ、始めますか?」
 セルジュがそう問いかけてきたので、アニエスは大きく瞬いた。
「始めるって何を?」
「予行演習しておくんじゃないんですか?」
 アニエスはここで、駆け落ちしている恋人同士の心中を熱く語って、セルジュに聞かせるつもりだった。もちろん永遠の愛を誓い合う場なのだ。恋する乙女らしい飛躍した妄想をしてみたりもしたけれど、まさか彼の方からそんな申し出があるだなどとは思いもしなかった。
「あなたが嫌じゃないなら、お願いするわ」
「だって、そのために来たのでしょう?」
 あくまで義務だと言いたげではあるが、この際どうでもいい。アニエスは帽子を脱ぐと、肩に掛けていたショールを頭に被った。これだけでもなんとなく花嫁らしい雰囲気になれる。
 祝福してくれる客人も結婚を見届ける神父もいない。色褪せてはいるが、かつては深紅であっただろう絨毯を、アニエスは一人歩いた。ほどなくすると、セルジュが待っている場所にたどり着く。彼の腕を取って、さらにゆっくりと歩みを進めていく。
 最奥まで辿り着くと、どちらからともなく向かい合う。示し合わせたわけではないのに、不思議と呼吸が一つになる心地に、アニエスはこれが現実になればいいのにと心の底から思った。
 ヴェールに見立てたショールをセルジュがゆっくりと押し上げたので、アニエスはセルジュの生真面目そうな顔をじっと見つめた。いい加減想いが伝わるように、これでもかと熱い眼差しで。その眼差しの意味に気付いてくれたのか、セルジュもアニエスの空色の瞳をじっと見つめ返した。
 深緑の瞳に吸い込まれていくみたい。そう思ったアニエスは気付いた。それはセルジュの顔が少しずつ近づいているからだと。ゆっくりと、確実に距離が縮まっていく。吐息がかかるほどの距離になっても、彼に停止する様子はなかった。あと少しで唇が触れあってしまいそうな距離。息が止まる──そこで、ようやくアニエスは声を上げた。
「そ、そこまで忠実に再現しなくていいからっ」
 胸元を力一杯押しやると、セルジュは抵抗なく離れた。アニエスは跳ね回る心臓を落ち着かせようとうつむき、自分の胸に手を当てた。
「本番通り、きちんと最後までやらなければいけないという、無言の圧力を感じたものですから」
 アニエスの熱い眼差しを彼は違った意味で受け止めたようだった。
(わたしをからかってるの? 本当に鈍感なの?)
 疑わしい眼差しでセルジュを睨みつけ、悔し紛れにそっと呟く。
「そういう大事なことは練習できないものでしょ。あなただって、好きでもない人と愛を誓い合いたくないでしょう?」
「……まあ、そうですね」
 その瞬間、アニエスの中で何かが音を立てて崩れた。
 セルジュは当たり前のことを言ったに過ぎない。なのにどうして、これほど胸が張り裂けそうに苦しいのだろう。
 彼が何気なく漏らしたその言葉は、あまりにも明確に一つの答を示していたのだった。

 その後のことをアニエスはよく覚えていない。もう帰ると言ったから宿に戻ったのだとは思う。けれど、セルジュのあの言葉が何度も脳裏に蘇り、アニエスは部屋で一人落ち込んでいた。夕食はいらないと言ったから、彼が自分を呼びに来ることはないはずだ。
「わたしの気持ちに気付いて欲しいと思っただけなのに、気付かせる前に失恋するなんて思ってもみなかったわ……」
 だったら何も知らず、彼を好きなままでいられたら良かったのに。こんな思いつき、実行するべきではなかったのだ。そう思う反面、初めて触れた手の温もりを思い出し、心がじんわりと温かくなるのも感じる。箱庭のような屋敷にいたままなら、その安らぎを覚えることもなかったのだ。
 今でも思い出すと胸が高鳴る。彼に好かれていないと知ってもなお、どうしてもセルジュのことが好きな自分を自覚する。けれど、この旅はもうおしまいだ。何をしても虚しい。明日すぐにでも屋敷に帰れば、父も安堵し、大事にはならないだろう。
「やっぱり、お父様も心配してるわよね……」
 今のところ、それを知る術はない。いや、セルジュに訊ねれば彼は調べてきてくれることだろう。
 そこでふと思い立った。アニエスがセルジュの前から姿を消したとしたら、彼は心配してくれるだろうか。
 してくれるに違いないと思いながらも、いつものように面倒くさそうにするだけかもしれないとも思う。でも。アニエスのことを好きでなくても、心配くらいはしてくれるはずだ。そうに違いない。
 無理矢理結論づけると、アニエスは一つ頷いた。今夜宿を出て姿を隠してみよう。寝る前に一度、セルジュはアニエスに声を掛けてくれるはずだ。その時にいなくなっていたら、どんな反応をするのだろう。
 アニエスは心を決めると、セルジュに気付かれないよう部屋を抜け出した。

 夜の街は昼間と違っていた。酒場や民家から漏れる光と、月明かりが照らし出す街並みは幻想的でもあり、おどろおどろしくもあった。
 気持ちが急いていたアニエスは、帽子を被ってくるのを忘れたことに気付き、取りに戻ろうかと逡巡した。けれど、宿に戻ったところでセルジュと鉢合わせしては元も子もない。諦めて、夜の街をとぼとぼと歩き始めた。
 酒場からは複数の笑い声が漏れてくる。ついつい覗いてみたくなるが、一人で入るのも躊躇われた。かといって、セルジュが見つけてくれるまで夜の街を歩き続けるのも疲れる話だ。
 考えなしに出てきたことを少し後悔し始めた時だった。複数の男がアニエスを取り囲んだ。
「こんな夜中に一人歩きだなんて物騒だと思わないのか?」
 見上げると、お世辞にも柄が良いとは言いがたい中年の男達が、好奇の目でアニエスを見つめている。
「おい、見ろよ。かなりの上玉だぜ。こりゃ金になりそうだ」
「ちょっと待て。なんでこんなお嬢ちゃんが一人で街を歩いてるんだ。おかしいだろ」
 男の内の一人は辺りをきょろきょろと見回した。近くに連れがいるのを警戒しているようだ。
「家出中だもの。一人で当然でしょ」
 なんだか腹が立って、アニエスは恐れずそう言い返した。その言葉を聞くなり、男達はにやりと顔に笑みを浮かべる。
「ほう、そりゃ都合がいいな。身代金でも要求しようか。どう見たっていいとこのお嬢ちゃんだ」
「やめてよ、家出中なんだから。あなたたちに掴まってなんか……」
 そこでふと、アニエスは口を噤んだ。自分が誘拐されたとしたら、セルジュは助けに来てくれるだろうか。
「……わかったわ。やっぱりあなたたちに掴まってあげる」
 ぽかんとした男達を見て、アニエスは一睨みをくれてやる。
「そうと決まったら早くして。わたしにだって矜持があるんだから」

 男達に連れ去られるというよりは、一緒について行った先は、古びた建物の一室だった。
「で? 身代金要求先はどこなんだ」
「身代金なんてどうでもいいの。あとでお父様がいくらでも支払ってくれるわ」
 男達は顔を見合わせた。アニエスは相変わらず恐れもせず、頬を膨らませている。
「嬢ちゃんは立場をわかってないようだな。あんたのために金を払う人間がいなけりゃ、あんた自身を売るしかないんだぜ?」
 酒臭い息を放つ顔を近づけられ、アニエスは不快感から顔を背けた。男達など怖くはなかった。父が、セルジュが、必ず助けてくれると信じている。
「どうやら、身体で思い知らなきゃいけないらしいな」
 アニエスに話しかけていた男が、懐から光るものを取り出した。ゆっくりとそれをアニエスの首筋に当てる。
「あんたを殺すことなんて、俺達は簡単に出来るんだぜ」
 当てていたナイフを軽く引くだけで、首筋に赤い線が浮かび上がる。そしてそのままナイフは首元のリボンを引き裂き、白磁のような肌をした胸元が露わになった。
 その時点で、ようやくアニエスは恐怖を感じた。目の前の男達は、今まで自分が接してきた男性達とは決定的に違うのだ。
「いや!」
 思わず胸元を押さえたアニエスは、ふとあるものに気付く。家出をした夜、セルジュから肌身離さず持っているようにと言われた小さな袋。なくさないようにと首から紐でぶらさげたそれが胸元にあることを今更のように思い出した。
 何か困ったことがあれば、それを相手に渡すようにと言われていた。思い出し、服の下から小さな袋を取り出す。
「なんだ、それは?」
 アニエスが中身を確かめるより早く、男はそれをつまみ上げた。男が中身を改めると、そこには小さな紙片が入っていた。それを難しい顔で読んでいた男だが、読み終えた瞬間にやりと笑った。
「これはひょっとしたら面白いことになりそうだ。喜べ、嬢ちゃん。とりあえず無傷で生かしておいてやるよ」

 男達に囚われてから、二日が経過した。宣言通り、その間にアニエスが傷つけられることはなかった。そしてその間に、アニエスはどこかへ移動させられた。街から離れているらしく、人気がないことは辺りの様子から窺えた。
 すっかり疲れ果て、意気消沈したアニエスは言葉を紡ぐことも億劫だった。男達は何かを待っているようだった。そして、セルジュがなかなか助けに来てくれないことにも、がっくりきた。
「良かったな、嬢ちゃん。今日金が手に入れば、あんたは自由の身だ」
 昼過ぎに見張りの男がかけてきた言葉に、アニエスは勢いよく顔を上げた。
「どういうこと?」
「あんたを助けるためなら、いくらでも出すって言う奴がいるんだよ」
 セルジュのことだろうか。けれど、彼がアニエスのためにお金を惜しまないというのはどういうことだろう。父が全て出してくれると考えてのことだろうか。
「まあ、そいつが本当に金を持って現れれば……の話だが」
「セルジュは来てくれるわ。絶対」
「俺達としても、そうあってくれればね」
 一時は潰えかけていた望みが、小さな光明となって心に灯る。そうだ、初めから信じていたのだ。セルジュが助けに来てくれると。
 アニエスがそう確信をもった時だった。階下がにわかに騒がしくなった。
「噂をすれば、だ。嬢ちゃんはじっとしてな」
 初めは逃げないようにと手足を縛られていたアニエスだが、今はその必要はないと戒めは解かれていた。何よりアニエスは自分から脱走する気などなかった。囚われのお姫様は必ず愛する王子様に助け出されるに違いないのだから。
 階下から複数の話し声と足音が聞こえる。その声が近づくと、アニエスが囚われている部屋の扉が開かれた。見間違えるはずなどない、一番会いたい人が目の前にいた。

 

一つ前に戻る目次に戻るひとつ進む

SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送