第三話 来訪者は突然に


 アニエスは練習した笑顔と言葉で彼に向き直った。
「ユベールさん、この度はお招きいただきありがとうございました。本当におめでとうございます。素晴らしき歴史の生き証人になれて、本当に嬉しいですわ」
 大袈裟すぎる世辞かと心配したが、ユベールは満足そうに会釈を返した。そうして横にいるロシェルに目を遣ると、今気付いたというように辺りを見回した。
「おや、セルジュは一緒ではないのですか? 彼はあなたの婚約者だと伺っていましたが……女性をエスコートするのは貴族でない彼からすると苦手なのかもしれませんね」
「そんなことありませんわ。せっかくご学友の皆さんが一堂に会しているのですもの、昔話に花が咲くのは当然です。わたしとは屋敷に戻ればいつだって一緒にいられるのですから」
「おやおや、可憐だと思っていたのに、随分逞しいのですね。ただ、良からぬ噂もありますから、誤解を招くといけないと思って忠告しにきたのですよ」
「何ですか? 良からぬ噂って」
「いえ、私はセルジュのことをよく知っていますから、そのような事実はないと信じています。ただ、貴族の中にはそう思う者もいるということで……」
「はっきり言ったらどうなの」
 ロシェルの厳しい視線にユベールは肩をすくめて見せた。表情は笑顔を作っているが、目は全く笑っていなかった。
「皆が言っているのです。セルジュが、地位と財産目当てにあなたに近づいたと……」
 これにはアニエスは完全に頭に来た。誰かが噂しているのではない。ユベールがそう思いたい上に、セルジュの風評を貶めたいに違いないのだから。
「そんなわけ……!」
「ええ、もちろん、私はそんなことがないとわかっています。けれど世間から見ればそのように映るということです」
 アニエスが辺りを見回すと、数多の視線が自分に向けられていることに気付く。ベルリオーズ家の箱入り娘を見定めようとしているように。
「もちろん、そんな噂を聞きとめたなら、ユベールはきちんと否定しているんでしょうね? エルランジェの人間なら誰しも知っているはずよ。セルジュは王様つきになる好機に飛びつきもしないほど、地位とか財産に興味がないってね」
 ロシェルの言葉にユベールは一瞬だけ冷たい表情で固まった。だがすぐにそれはいつもの柔和な笑顔へと変化する。
「そうですね。皆が知っていることだ。もちろん無二の親友である私が否定しないわけないでしょう?」
「なら安心ね。でも忠告に従ってそろそろセルジュを取り返してくるわ。じゃあね、ユベール」
 ロシェルに背中を押され、アニエスは軽く頭を下げるに留め、ユベールのもとから脱出した。
「ほんと胸くそ悪いったらありゃしないわ。あなたと結婚したらセルジュが地位と財産を手に入れると思って戦々恐々としてるのよ。だから、細かい工作して、破談にでもしようとしてるんじゃない」
「ロシェルさんも、ユベールさんが……その、お嫌いなんですか?」
「別にあいつ一人なら害はないのよ。でも、セルジュにねちねち絡んでいくあいつを見たら、誰だってセルジュの肩を持ちたくなるわ」
「そうなんですか……」
「正直、セルジュは学内でも浮いてたし、彼も彼で貴族の中でやりにくかったと思うわ。でも、本当に彼の成績は素晴らしかったわ。惚れ惚れするぐらい頭が冴えていたのよね」
 アニエスはちらりとロシェルを盗み見た。こんな綺麗な人がそばにいて、セルジュは何とも思わなかったのだろうか。
(それとも昔は恋人同士だったとか?)
 アニエスの妄想は飛躍した。信頼できるからこそアニエスのもとにやったのだ。やっぱりそれなりに深い仲なのかもしれない──。
「あ、いたいた。セルジュ、お姫様を悪の魔王から助け出してきたわよ」
 ロシェルの声に急いで振り返ったセルジュは、アニエスの顔を見て心底安堵したようだった。セルジュの回りには同じくらいの年頃の青年達がいて、アニエスは彼らがセルジュの学友なのだと判断した。
「アニエス様、お一人にさせてしまったままで申し訳ありません」
「ううん、わたしは大丈夫よ。それより、セルジュも大変だったのでしょう?」
「いえ、まあ……」
 歯切れの悪いセルジュを尻目に、学友達はアニエスを興味深そうに眺めている。
「これほどまでに綺麗なお嬢さんだとは……そりゃセルジュが隠したがるわけだ」
「私が隠しているのではありません。アニエス様のお父上が隠しているんです」
「なんだよ、さんざん連れてくるように言っても、連れてこなかったくせに」
「あなたたちがそういう好奇の目で見るからです」
 セルジュはかばうようにアニエスの前に立った。けれど、アニエスはセルジュの背中から顔を出した。
「セルジュ、きちんと紹介して欲しいわ。わたしだって、セルジュのお友達とお知り合いになりたいもの」
「……仕方ありませんね。アニエス様がそう言うのなら……」
「セルジュが恐ろしく素直だ……」
 辺りがざわめき、好奇の目は、やがて畏敬の眼差しとなってアニエスに注がれた。
 一通りの自己紹介を済ませ、アニエスがセルジュの婚約者であることが明らかになったところで、ようやくセルジュは学友達から解放された。
「学術院に通っている人はお堅い人たちばかりかと思っていたけれど、そうでもないのね」
「あそこにいた人たちは例外です。優秀な人たちではありますが、それが性格にも反映されるとは限りません」
 二人は人の多い広間を抜け、庭園へと歩みを進めた。ようやく一息つくと、アニエスは気になっていたことを訊ねた。
「ロシェルさんから、セルジュは卒業するときに、王様つきの学者になる機会があったって聞いたわ。どうしてそれを受けず、わたしの家庭教師になってくれたの?」
「あの人はそんな余計なことを……」
「ごめんなさい。言いたくないならいいのよ。だけど、その……気になって……。わたしたちの出会いは、運命なんじゃないかなって……」
 アニエスの不安と期待に満ちた眼差しに出会うと、セルジュは観念したように口を開いた。
「……アニエス様が期待しているような話では全くないので、非常に申し上げにくいのですが……」
 セルジュは心底気まずそうに、真実を告げた。
「一番早く、お金がもらえたからです。デュクロ様は前金でいくらかくださると、そう言ってくださったので……理由はそれだけです」
「え……」
「申し訳ありません」
「べ、別に謝ることじゃないわ。お金は大事よ。それは確かだもの!」
 予想外だったことは確かだが、夢がなさ過ぎてアニエスは上手く言葉を返せなかった。
「学術院の学費は、推薦状と優秀な成績を修めることで免除されていたのですが、学んでいる内はお金を稼げなかったので、出来るだけ早く母に仕送りをしたかったんです」
 その言葉に、アニエスはまた自分の浅はかさを思い知ったようだった。セルジュが何のために学術院に入ったのか、聞いていたはずなのに。彼は母親を楽にさせてあげたいと考えていた。自分の能力を試すのでも、知らしめるのでも、地位や権力を得ることでもなかったのだ。
「動機が不純なのは心苦しい限りですが……それでも、今となっては、あなたと出会えたことに感謝せずにはいられません」
 そう言ってセルジュが少しでも幸せそうな顔をしてくれると嬉しくて、アニエスはなんとしてでもセルジュを招こうとした父に感謝したくなった。
 しかしふと疑問も浮かぶ。学術院では、セルジュにとって運命の人はいなかったのだろうか。アニエスは思い切って、訊きたかったもう一つの疑問も口にしてみた。
「ねえ、セルジュはロシェルさんと仲が良かったの?」
「……まあ、それなりには」
 アニエスのことを可愛らしいと言ってくれるセルジュだが、アニエスから見ればロシェルの方が断然女性として美しいと思うのだ。
「怒らないから正直に答えて。ロシェルさんに少しでも恋心を抱いたことがある?」
「……おっしゃっている意味がわかりかねますが」
「んもう! そうやってとぼける気なの? 別に怒らないから、好きなら好きだったって教えてよ」
「いえ……その、何か勘違いをしているんですか?」
「だって、あんなに綺麗なのよ。好きになってもおかしくないじゃない」
「……やっぱりあなたは素直すぎるんです。あの人……男ですよ?」
「え……」
 アニエスはセルジュの言っていることがすぐには理解できなかった。
「ロシェルさんが……男の人?」
「本当の名前はロドルフです」
「でも、ドレス着てたじゃない!」
 そこら辺の令嬢より充分すぎるくらい綺麗だった。
「残念ながら事実なんです。ああいう人も世の中にはいるんです。昔からああなので、誰も何も言いませんけど。まあ、犬に噛まれたとでも思ってやり過ごしてください」
「無理よ、女としての自信をなくすわ……」
「本当に、自分のことに関しては無頓着なんですね。今夜一番目立っていたのはあなたですよ。どれだけの男があなたに目を奪われたか……」
 アニエスは顔を上げた。セルジュの瞳がもどかしそうにこちらを見つめている。
「本当に今ならデュクロ様の気持ちがわかります。誰の目にも触れない場所に閉じこめてしまいたいくらいです」
「そ、そんな風に言ってくれるのはセルジュだけだもの。自分が他の人の目にどう映っているかなんて考えたことないもの……」
「じゃあ、何度でも言って差し上げます。他の者になど言わせません。あなたはとてつもなく可愛らしくて……今夜は更に美しい」
 セルジュの腕がアニエスの腰を強く抱き寄せる。耳元で囁く声が掠れていて、アニエスの全身に甘い痺れが走る。きつく抱きしめられすぎて、呼吸が苦しい。それでも、この時間がずっと続けばいいとアニエスはセルジュの背中に腕を回して目を閉じた。
「……月は出てる?」
 しばらくセルジュに身を任せていたアニエスは、小さな声で問いかけた。
「満月ではありませんが……それがどうかしましたか?」
「駆け落ちするにはいい夜かなと思って」
 セルジュの笑う声が耳元にくすぐったい。
「……もう、駆け落ちをする必要はありませんよ。必ず近いうちに、デュクロ様を納得させてみせます」
「本当?」
「お約束します」
「うん……セルジュ、大好きよ」
 回した腕にさらに力を込めると、そのお返しのように、ずっと聞きたかった言葉がアニエスの耳にすべりこんだ。
「……愛しています」

 二人がベルリオーズ家に無事帰り着くなり、デュクロはセルジュ一人を自室に呼びつけた。二人の仲の進展具合でも根掘り葉掘り聞かれるのかと、ややうんざりした顔で現れたセルジュを見ても、デュクロは常にない真面目な顔で待ちかまえていたのだった。
「君に大事な話がある」
 セルジュは話を聞き流そうと思って散漫になっていた意識を集中しなおすと、神経を研ぎ澄ませた。おそらく、こういう切り出し方はアニエスに関することに違いない。
「あの青年……ユベール・シャルダンといったか。彼が叙勲を受けるという話を聞いて、少し調べてみたのだがね……。叙勲は、その功績によっては勲章だけでなく爵位も与えられるという。君は優秀な学者ではあるが、あと足りないものがあるとすれば……地位だ。アニエスはベルリオーズ家の一人娘だ。その娘が侮られるような隙を少しでも排除しておきたい……私が言っている意味はわかるね?」
「……爵位を得られるような功績を収めよと……そういうことでしょうか」
「訊ねるまでもないか。君ほどの男なのだから、世間が驚くような難問を解くというのはどうかね。ユベールが解いた難問は一つだそうだね。君なら全部解けるだろう?」
「やってみなければわかりませんが……時間がかかるかと」
「功績を成し、爵位を得れば、すぐにでもアニエスとの婚姻を認めよう。ただ、アニエスには悟られてはならん。無理難題を押しつけたと私を責めて、口を利いてくれなくなっては困るからな。それから、娘を何年も待たせるわけにはいかない。あまりに時間がかかるようなら……諦めてくれたまえ」
 セルジュは決意を秘めた眼差しをデュクロに向けた。
「何年も待たせたりはしません。数ヶ月で片を付けます。早速ですが、デュクロ様に取り寄せて頂きたい本があります。あとで書面にしてお持ちしますので、急ぎ手配してください」
「わ、わかった。言うとおりにしよう」
「では、早速取りかかりますので、失礼します」
 セルジュの背中を見送ったデュクロはやれやれと息を吐き出した。
「そんなこと出来ないと、突っぱねるかと思ったものだが……まさか本当にやる気とは。また、アニエスに怒られてしまうな……」
 それでも、デュクロの目は、どこか頼もしそうにセルジュの去った方向を見つめているのだった。

 

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